
すごく遠い場所|とわ
玄関ドアが開くと部屋の気圧が変わって、ひゅっと音がする。続いて、あさひの「ただいまー」という元気な声がして、内鍵二つとU字のロックを閉める音が順序よくする。靴が玄関のタイルに投げ出されて転がる。ランドセルの脇に付けた防犯ブザーやキーホルダーやお守りをじゃらじゃらと廊下に響かせて、リビングのドアがわっと開く。
みちるが「おかえり」とパソコンから視線を上げると、あさひは黄色い通学帽子のあごひもを長く伸ばして脱ぎ捨て、「めっちゃ暑い」と首から提げた水筒を仰ぐようにして飲む。前髪が汗で束になり、赤い顔をしている。「今日の最高気温十四度って書いてあったよ?」みちるが訊くと、「走って来た」と言う。「何で走って来たの?」と訊くと、水筒から口を離して肩で大きく息をつき、「なんか走りたい気分だったんだよ」と答える。
みちるがキッチンでお茶を煮立てている間に、あさひは給食セットの入った巾着袋からカトラリーをシンクに出し、ランチョンマットと巾着袋を洗濯袋に入れる。ウエストに付けたポーチも外してティッシュとハンカチを出すと、ポーチとハンカチだけ洗濯袋に入れる。
「おやつに干し芋あるよ」みちるが声を掛けると、「今日は干し芋の気分じゃないかな」とあさひはフローリングを靴下で勢いよく滑って来る。あぶないよと注意するけれど、はあいと気のない返事をしながら冷蔵庫を開ける。
「なんかさっぱりしたものが食べたいんだよね」あさひは扉に手をかけたままつま先立ちで覗く。
「たとえば?」
「あのさ、ぶどうとかりんごとかの味がある、細いゼリーみたいなやつあるじゃん?」
「あれはもう捨てちゃったよ。いっつも中途半端に残して飽きちゃうじゃん」
あさひはガーンと白目になっておどけた顔をしたけれど、冷蔵庫のブザーが鳴ると慌てて扉を閉めた。
「コンビニにおやつ買いに行ってもいいよ」みちるが言うと、行く行くと飛び跳ねて、「パパにもなにか欲しいものないか聞いて来る」と、またフローリングを靴下で滑ってリビングのドアに手をかける。
「パパ、今日は出掛けてるよ」
「そうなの?」あさひが下げたドアノブをもどし、「どこ行ったの?」と向き直る。
「代々木だって」みちるがIHのスイッチを切って答えると、「代々木、ってどこ?」と首を傾げる。
「東京」と言うと、「東京かあ」と納得したような口ぶりで頷く。電車に十五分も乗れば住所は東京都になるけれど、あさひにとっては県をまたぐだけですごく遠い場所になる。それが渋谷でも新宿でも、遠いことには遠いけれど大人が思う遠いよりもずっと遠い。
みちるがクローゼットで支度をして戻ると、あさひは口を半開きにしてダイニングテーブルに何か広げている。「行こう」とみちるが近づくと、それは夏に海で拾った貝殻やシーグラスや模様のきれいな石で、「ひなたと行ったよね。それで船に乗ってさ、ばあばの骨を海に撒いてさ、ママが変な投げ方するからじいじが笑ってさ」とあさひは手元を見ながら思い出して顔を綻ばせる。ひなたは弟夫婦の子供で、お互いにたったひとりの従妹だ。散骨する船のデッキで、二人は手を繋いで大人がすることを見ていた。
母が亡くなってから、もう半年なのかまだ半年なのかみちるは分からない。あさひは毎週火曜日に、夕方のニュース番組の続きでバラエティ番組が始まると、「一週間はや」と言う。みちるが小学生のころは一週間も一年も途方もなく長かったような気がする。あさひは記憶の帯を手繰り寄せて、骨になる少し前の生きて動いている母の姿を思い出したりするのだろうか。
しばらくするとあさひは満足して、「行く」とテーブルに並べた貝殻や石の列を両手で崩していく。何回かに分けてガラスの瓶に戻すと、寄せ集めた手の形に白く砂が残った。
「パパどこに行ったって言ったっけ?」あさひの関心はもうテーブルの上にはない。みちるは「代々木だよ」と答えながら、手のひらで砂を瓶に掃き入れた。