
言葉は自分に筋を通す(散文)|tsuzuki
大学三年生の時、ゼミの四年生を卒業後に祝う会があった。場所はゼミの仲間で行きつけの中華料理店。その席で卒業する四年生から、それでこの先どうするのかと訊かれて、ぼくは「文章を書いて生きていけたら」ということを言った。女性の先輩が「小説家って、なろうとしてなるものかねぇ」と言って、それ以降何も言葉が出せなかった。この言葉は、今思えば文章についてさまざまに考えるきっかけとなったけれど、当時はなにか大きく自分が傷つけられたような感覚があった。
なぜこの言葉に傷ついたのか。なぜ今も痛みとして残っているのか。この痛みの底にあるのは、おそらく自分の中身が空洞だということが暴かれた、ということだと思う。大学四年生には、目の前に自分で稼がなければならない現実があったはず。一方ぼくは必死に空洞のロマンを膨らませ続けて、そのロマンに空気を送り込んでくれるような言葉を求めていた。けれど就職を目の前にした四年生はもちろん甘くなかった。
そこから二十年以上を経て、ロマンのふわふわは、途中で疲れて空気を注ぎ込んでやらなかったら、固まって埃みたいになった。いまでも文章を書いているけれど、小説家になりたいという憧れの気持ちとはちょっと違う。いまはあの頃よりも、もう少しだけ文章を書くことに必要性がある。
文章を書くことはちょっと面倒だし、取り組むのにも気合いがいるし、楽しいとは言えない。それでも、なにか自分の中にあるものが言葉になって出てきた感触があると、すっきりする。ただし言葉は排泄物ではない。この言い方は、ロマンがうまくいかずに反ロマンへ反転した(闇堕ちした)人間の露悪主義的な言い方だ。
すっきりするのは、自分に筋が通っていくからだ。言葉によって自分の中に光が当てられ、整理されていく。断片が繋がり意味を帯びていく。このことで自分がどんなでどこにどんなふうにいるのか、少しだけ見えてくる。でもやっぱり「小説家って、なろうとしてなるものかねぇ」といった先輩の言葉は、いまでも嫌な響きを持っている。ぼくは人に言わない。