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一番いいぶどう|tsuzuki

「じゃあきょうはここまで」と言うと、Zoomの画面から学生の名前がどんどん消えていく。全員がいなくなってから大きく息を吐き、立ち上がって冷蔵庫を開ける。赤い輸入ぶどうのパックを取り出して一粒を口に放り込んだタイミングで奈津美が帰ってきた。
 またぶどう食べてんのほんと、空気みたいに食べるよね、と口元だけで笑うような、呆れるような顔をして、エコバッグをテーブルに置く。中からは鯖の竜田揚げと豆もやしが出てきて、和文は蒸し器をコンロにセットする。少し前に、ル・クルーゼの上に置いて使える蒸し器を買ってから、なんでも蒸すようになった。最近の奈津美は豆もやしばかり買ってくる。
 洗面所にいった奈津美が、明日から在宅でいいってーと言ってからうがいする音が聞こえる。ぶどうを頬張ったまま、ほおん、と返事して和文はトースターにオーブンシートを広げ、鯖の竜田揚げを乗せていく。トースターの中はパンくずが散らばっていて焦げ臭い。
 晩御飯を食べた後は、学生に「記憶にのこっていること」のテーマで書かせた原稿に、赤を入れていく。改行がない文章にイライラして、思わず乱暴に冷蔵庫を開けてしまう。ぶどうを一粒口に含んで強く噛む。それから「打席に立った時、私の頭を走馬灯のようにこの一年の汗と涙の出来事がめぐってきたのだ」という一文を読んで、次の一粒を欲した。
 ぶどうを口に含み「走馬灯、といったステレオタイプな表現はイキイキ感がでません、省こう」と書いてから、ぶどうを飲み込む。友達との待ち合わせに遅刻した話で「二度と同じことは繰り返さないと誓った」で終わったところに「最後は決意で締めないでおこう。大事な決意は心にしまっておこう」と書いて、ぶどうを含む。そうしていつの間にか一パックが消え、近所のスーパーが二三時まで営業してたことを思い出す。輸入ブドウ一パック四五〇円。それもおおよそ次の日の昼にはなくなり、また買いに出る。
 何日経ったのだろう。「ただいまー」と帰ってきた奈津美のエコバックにはぶどうのパックが入っている。「どうせ買うんでしょ」といってから「キットカットよりはいいと思うことにした」といって冷蔵庫を開ける。それから逡巡して一房取り出すと、流水で洗い、お皿に載せてテーブルに置く。和文も向かい側に座り一粒を口に運ぶ。「これあんまり甘くないね」と奈津美が言って、和文は「外国のだからね、十分だよ」と答える。
 それからしばらくスマホと向かい合っていた奈津美が急に「キリストはね、わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である、って言ったらしいよ」という。ダイニングでノートPCを開きながら「ん?」と反応する。「キリストはね、水をぶどう酒にかえたらしいよ」というから「それは知ってる」と答える。奈津美は次を続ける。「ぶどうの根はね、地上に出ている部分に対して五倍の長さを持つらしいよ」
 中東の乾燥した大地にうねうねしたぶどうの木が根を張るのをイメージする。白い太陽にジリジリと焼かれて乾いた固い土の奥の奥に捻り込むように根を伸ばして、地中深くから水を吸い取ってほんの少しずつ実に運んでいく。乾燥した大地で果実が膨らんでいく。
「なんでそんなとこで育とうとするんだろうね」和文がいうと、奈津美は背筋を伸ばして反応する。「そう設計した神様がいるんだよきっと」
「えー。必要に応じて植物が方法を身につけた、とかじゃない?」「植物が? 望んだってこと?」「うーん、意思とかないはずだから、植物は。望んだというよりは、そういう選択肢になった、みたいなこと?」「でもさ、どうやってそれが一番いいって判断できるの? 確かめようがないじゃん。脳みそあるわけ?」「うー、たぶんね、結果的にそうなったんだよ。いろんな方法があって、たぶん、いろんなぶどうがいろんな方法をとってて、うまくいかなかったらそこで終わって、そいで結果的に生き残ったやつが。いちばんの生存戦略? みたいな」
「結果的ってこと? そしたらさぁ、生き残ったぶどうがいちばんいいぶどう、ってこと?」
「そう、なるの、かな、なんかバトルロワイヤルってこと?」と言ってから和文はなぜか、自分がここで終わるのだという気がする。終われるのなら、いつ終わってもいいと思う。けれどそれがいまここなのかと思うと、体の、胃の、奥の奥で眠っていた何かが突き上げてくる感じがする。息が少し苦しい気がして、奈津美に伝えようと思う。けれどうまく声はでない。奈津美はずっとスマホを見つめている。

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