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ミューズ|tsuzuki

 五月、住んでいた部屋の水道管工事が終了するまでのおよそ二、三ヶ月だけ、同じ会社が管理するこの物件に入ることになった。大きめの家具は後ほど業者が運び込む。服など必要なものだけこの土日で少しずつ運び入れる。
 とりあえず金曜日に仕事から帰ってきてから、衣類などの引越し荷物をまとめて、先にカーテンと布団、水槽を運び込んだ。その時点でもう夜中になってしまい、コンビニで買った弁当を食べてユキチと遊んでいたら、そのまま眠ってしまった。ユキチは落ち着きなく和文を突いている。もう日が登ってしばらく経ったのかもしれない。
 隙間からは細い光の筋が伸びていて、その青い筋のなかでほこりがうねうねと動いている。筋の先には床に置かれた三〇センチ四方の水槽があって、中ではオトシンクルスが一匹、すばしっこく泳いではガラス面に張り付く動きを繰り返している。
 トイレから出ると、目の前でユキチがお座りしている。「どこだろねー」といって和文はユキチの背中を撫でる。がらんとした部屋はただの箱だ。布団一式と水槽以外には何もない。
 水槽のじーっというエアレーションの音だけが響いている。和文が動くと、後についてくるユキチの爪がフローリングに当たるカツカツという音が響く。座り込んだユキチにリードをつけ、ドアを開ける。
 子供の甲高い声が一気に飛び込んでくる。目の前の公園では子供たちが駆け回っている。音大生向けに作られた防音性の高い部屋だ。本来はペット不可であるし、十畳のリビングにキッチンスペースとバス・トイレ別という部屋の広さからして、派遣社員の和文が住むような部屋ではない。お風呂がタイル張りだったりする古さはあるだろうが、これだけの設備であれば家賃は十万円を切らないだろう。
 散歩から帰ってユキチのお皿にご飯を開ける。お皿に顔を突っ込みガシガシと音を立てるユキチの姿を見つめる。どんどん飲み込んでいく。ふと、なにか耳を擦るような小さな音がした気がする。何の音かを辿っていくが、どこから聞こえるのかわからない。けれど一定の調子で定期的に聞こえてくる。
 人間の声のような気もするが、何か振動する楽器の音なのかもしれない。気になってどこから聞こえるのか耳を澄ませる。けれど、部屋に反響しているのか、どこからきこえるのかわからない。お散歩に行ったそのままの勢いでご飯を済ませたユキチは、たっぷりと水を飲んでフローリングにお腹をつけてぺたんこになっている。
 リュックからモーパッサン短編集を取り出して読み始める。数年前から時間が空いた時に読むためにリュックに忍ばせている。そうして十九世紀フランスの田舎で農家の主人が硬いパンをスープに浸したところでお腹が空いてきて、そういえば朝ごはんを食べていなかったことを思い出す。
 冷蔵庫と電子レンジは来週、移送することになっている。コンビニに行くか、と思って立ち上がると今度は明確に声が聞こえてきた。蝉の声だ。はじめそれはまるで耳の中に羽虫が入ったかと疑うような直接的なじじじという声だった。慌てて和文は頭を振る。それで一瞬紛れたように思ったが、次に聞こえた時には周囲一面でクマゼミが鳴いている。体が振動するような合唱になっていた。これかと和文は思う。しばらく解放されていたはずだった。
 音程もない。ただ薄い膜が激しく擦られ、叩かれ、破られる。ミンミンゼミのような奏でる音でもなければ、ツクツクボウシのような繊細さもない。
 ユキチは、と思って探すが、視界がどんどん暗くなる。薄らいでいく視界の中で、微かな光の痕跡を辿って窓に這っていく。思い切りカーテンを引く。重いサッシをあけると、むわっとした空気と共に一瞬で蝉は鳴き止み、もともと何もなかったかのように全ての音が消える。そうして数秒後には遠くからオルガンに合わせて合唱するような女性の声が聞こえてくる。滑らかに連続する音に耳が撫でられるような気持ちになって、今度はその滑らかさに撫でられる自分が、なにかを盗んでいるような、間違ったことをしているような居心地の悪さを感じる。
 振り返ると、ユキチは先ほどと変わらず眠っている。お腹が膨らんだり縮んだりしていて、和文は横に寝そべってユキチの身体に手を置く。ユキチは薄目を開けて和文を確認した後、また目を閉じる。和文は自分の脳の中でまた何かが孵ったのだと思う。これが何かはわからないけれど、ずっと自分の中に閉じ込めておかなければいけないような気がしている。

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