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パパッパーパパー|とわ
キッチンから「帆夏も何か飲むー?」と、ミカコの声がする。「オレンジジュースあるからいい」と応えると、はーいとすこし怠そうな返事がある。ドアポケットのビンがぶつかり合う音がして、冷蔵庫がパタンと閉まる。キャミソールとタオル地のショートパンツに着替えたミカコが、「マイマイになにもらったの?」と、炭酸水のペットボトルを手に部屋に入って来る。
「オイルのサンプルだって」
同じゼミのマイマイは、美容ライターのアシスタントをしていて、アパートに泊めてもらったお礼にと、ときどき仕事でもらった化粧品のサンプルをくれる。
「へー、いいな。一個もらっていい?」
たくさんあるから何個でも、とシャネルの小さな紙袋を渡す。タオルをターバンのように巻いたミカコの頭から、髪の束がこぼれてシャンプーの匂いがする。
ミカコはヨガマットの上に座ると、「すっごい浮腫むんよね。やばくない?」と足を伸ばす。「浮腫むって何? どうなること?」と、帆夏も自分の足を伸ばしてみる。「足ほっそ。全然浮腫んどらんわ。見て、わたし足首なくない?」前屈して浮腫んでいるらしい場所をほら、とさすってみせる。帆夏は言われた場所に目を凝らしてみるけれど、よく分からなからないまま「ほんとだ」と相槌を打つ。ミカコはちらっと顔を上げて帆夏を見ると、何か言いたげな様子でわずかに口を開いたが、思い直したように手のひらで伸ばしたオイルをふくらはぎへ滑らせた。あ、と帆夏が思ったのと同時に、ミカコが「ていうかさ」と、話し始めたので言葉が喉につかえる。
「もうただでさえネイティブな英語忘れてんのに、オージー訛りでわーっとどやされても全然分からんし、なんか悲しかったわ」
ミカコは朝から、国際フェスティバルに参加していた。インドをバックパック中に親しくなった友達の恋人が出店するというので、手伝いに行っていたらしかった。
「ハヴァ ナイス ダイってやつ?」
「そう。To die is Good die.いやでもそうじゃなくて、わたしの話している言葉が話している通りに受け取られないって、なんか虚しくない?」
帆夏は以前、ミカコに「帆夏とは言葉の定義が違うから話す甲斐がないんよ」と、言われたことを思い出して、指先からすっと冷たくなっていくのを感じる。ゼミ飲みの帰り道で、二人とも酔っていた。帆夏はいつものようにミカコの言うところの意味が分からず、「どういうこと?」と無邪気に聞き返した。そのとき、ミカコがどういう顔をして、なんと答えたのか思い出せない。
帆夏は「たしかに」と応えると、オレンジジュースの紙パックにストローを挿して吸い込む。二人の会話はそこで途切れた。
エアコンのルーバーが傾くたびにパキッと音を立てる。ミカコが繰り返し足を押したり揉んだりするうちに、傍らに置かれたペットボトルに湧き立つ気泡がずいぶん減った。
マイマイとお茶をした帰りに、偶然、ミカコのアパートの近くのコンビニで会った。「寄ってく?」と訊かれたので、用もないのについてきた。今日はやめとくと、そこで別れればよかったのかもしれない。帆夏には適した選択とか、適した返事とか、適したタイミングとか、そういうものの見当がつかない。いつも一か八かで、相手の困惑した表情を見て初めて、へまをしたのだと気づく。
膝を抱えたまま前後に揺れていると、どこかでくぐもった音が連続して鳴る。「なに?」と訊くと、「トランペット。防音っていっても、抜けるんよな」とミカコが天井を見上げる。遠方に実家のあるミカコに代わって、東京に住む叔父が探してくれたアパートは、二十四時間楽器演奏可能な物件だった。小さいころからピアノのコンクールでたびたび賞をもらうほどの腕前で、当然その道に進んだものだと思い込んでいたらしい。
ミカコはふと空いたサンプルを拾い上げると、「え、これヘアオイルじゃん」と驚いた声を出す。
「うん、何で足に塗ってるのかなって思ってた」
帆夏は喉に刺さったまま、気がかりにしていた言葉がようやく出てほっとする。
「なんで言わんのー?」
「いや、なんかそういう人もいるのかなって思って」
「ヘアオイル足に塗る人はおらんやろ」
ほんと帆夏なぞよな、と呆れるように笑って立ち上がり、キッチンとバスルームがあるドアを開けた。
ピアノが置けるほどの広い部屋に、帆夏が一人座っている。トランペットはさっきからずっとワンフレーズを繰り返すばかりで、ちっとも曲にならない。帆夏は自分が吹いているつもりになって、「パパッパーパパー」と口ずさんでみる。音程が合わず、もう一度歌い直してみる。何度か繰り返してみても上手く音程が取れない。音は帆夏の身体を通すと、あべこべな音となって繰り出される。思い出したようにオレンジジュースを手に取ったが、ほとんど紙パックの重さしかないようだった。かまわずストローを吸うと、ずずずと耳障りな音が舌の先をほんのわずかに濡らした。