
西の森|tsuzuki
一分間くらいはじっと座っていただろうか。山口先生はたばこをくわえて話し始める。「あすこにガッショウサンのあるやろ」クラスみんなの顔が先生に吸い寄せられるように画板から起き上がる。「行ったことあるもんおるか」
合掌山にはこの町で唯一の神社、三偶神社の神官しか入ることは許されていない。「おいはな、入ったことのある」自らがモデルになって座る山口先生は口元を緩ませる。軽いどよめきが起こる。先生を囲んでコの字型に並べた美術室の机の左端から声がする。「そいやっても先生、おいたちはあすこには入られんやろ」ヤスは気になることはすぐに口に出す。「そうやな。でもな、入ろうと思えばな、どっからでん入らるるやろ」
再び教室に沈黙が訪れる。「もう、四十年くらい前やったかね。おいがお前達よりかもっと子供やった。ここに来るには毎朝山の反対側まで歩かんばやろ、面倒臭そうしてな、おいは社の裏から山に入ったさ」「薮蚊のいっぱい飛びよった。でもちょっと登って、高か木ばっかりのとこまで来たら、風の通ってな。土と木の匂いはよかなあ。どんどん気分ようなってな、ずんずん登った。学校行くとも忘れよった。早うてっぺんに立ちとうしてな。多分一時間くらいかね、いきなりぱって開けたとさ。周りに木の無くなったと。草原たい」
先生はズボンの後ろのポケットに手を伸ばして、ライターを手に取る。けれど火をつけることはない。そのまま胸ポケットにしまうから、毎回同じなのに毎回みな息が漏れる。
「でもな、まん中にでっかか木の一本だけ立っとる。でっかかって言うてもな、お前らの今想像した木のな、多分、百倍くらいでっかか。とにかくでかかった。何年か前にジョウモンスギっつうとばテレビで見たばってん、同じくらいでかかったね。皮のまた、凄かと。つるつるしとる。この辺じゃあがん木はなか。とにかく、おいはあがんおかしか木はあいより前にも後にも、見たことなか」先生くわえていたまだ長いタバコを外す。
「おいはな、不思議か木やねーって思うて触りとうしてたまらんようになった。手ばあげて前に突き出せばその木に触らるる。そいは分かる。でもさ、なんでか知らんばってん、そいだけはしたらいかんって気のしてさ、恐ろしゅうして触る勇気の出ん。ばってん、どがんしても触りたかと。触りたかとけど、もう、そん時には眠うして、眠うして、体も動かん」そこでくわえていたタバコを胸ポケットにしまう。先生が実際に火のついたタバコを吸っているところは見たことがない。
「でもこいはなんか危なかって思ったさ。そいで動かん体ば必死に動かしてな、転げた。転げて転げて、芋虫んごと転げた。そいで、石か木かなんか硬かもんにぶつかってあんまり痛うしてたまらんで、このまま死ぬかも知れんって思うてな。そいで、神様にお願いした。お願いしますお願いします助けてください。もう悪かことせんけん、もうここには入らんけん」というところで、ヤスが「しょんべん漏れる、先生トイレ行ってよかですか」という。
ヤスが勢いよく立ってトイレに走っていくと、続けて数人が立ち上がる。それで急に空気が動いてがやがやするのだけれど、和文の頭の中には白くてつるつるした巨木が根を張っている。その根は少しずつ音を立てて伸び、周囲の地面が動く。怖くなって頭を振る。山口先生と目があう。シワの奥の目をじっと和文から逸らさない。ただ目を逸らすことができないでいる。