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夜の砂|tsuzuki

 二〇〇〇年七月、大学三年生の和文はいつものようにマーと駅前のデニーズでダラダラしていた。閉店時間の夜十二時になって、さてどうしようかと自転車にまたがってプラプラする。知らない道に入って、次に大きな下り坂に出ると、グイグイとスピードが上がってブレーキをかけるのが惜しくなった。「びゃほー」と叫ぶ。下り切った先から全力で自転車を漕ぐが、背が高くてパワーのあるマーにすぐに追い越されてしまう。平になった道をグイグイ進んでいると、潮の匂いがした。
 月明かりを頼りに浜を歩く。ギュッギュと靴が砂に食い込む感触が気持ちいい。しばらく歩いて、「飲みもん買おうよ」とマーが言って道路に戻る階段を見つける。
 少しずつ風が強くなっている。潮を含んだ空気が汗で湿ったTシャツと短パンを撫でる。ファミマの緑色の看板が、一台だけ停まっている白いカローラレビンのボンネットで反射する。砂浜から登ってきた道路の向かいは真っ暗で波の音だけが聞こえる。マーがタバコを灰皿に落とすと、ジュッという音がして、和文も続けてタバコを落とす。
 マーは自分の短パンのポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになったマイルドセブンのソフトケースを和文に渡す。それから周囲をキョロキョロと見回して「なぁ」
「なに?」「いまなんじ?」「自分のケータイ見ればいいだろ」「ないんだよ」。そういうと、先ほど和文に渡したばかりのマイルドセブンをひったくって、一本を取り出している。
 お前マジでいってんのそれ。いやマジだよポケットにねーもん。いや探せってもっと。だからねーんだって。んじゃさっきんとこ戻ろうよ、と和文がいう間に口元のマイルドセブンに火をつけだした。「電話してみてよ」
 呼び出し音は鳴り続ける。しかしどこからも音は聞こえてこない。「マナーモードとかしてない?」「たぶん、マナーモード」。マーはそういうとヘラっとする。「火、ついてないよ」マーは急いで火をつけようとする。
「なんでタバコ吸うん、この状況で」「いや、とりあえず落ち着かねーと」マーは口を窄めて人差し指で頬をぽんぽんと叩く。そうして煙を輪にして出そうとするけれど、口から出た煙は風がすぐに持ち去ってしまう。和文はとりあえず周囲に目を凝らすが、それらしいものはどこにもない。「誰か拾ってくれてるべ」「誰もいねーだろいま夜中だよ」「なら明るくなったら誰かが見つけるべ」「砂の中から?」
 マーがタバコを吸い終わると、二人で道路を渡り、もときた階段を降りるけれど、少し降りると足元は真っ暗になっている。和文が携帯で明かりをつける。波の音がさっきよりも随分と大きい。だいぶ近くで聞こえる気がする。
 コンビニの光は届かない。さっきまで出ていた月はもうどこにもいない。空がすぐ近くまで迫ってくる。「マー」「なんだよ」「あ、いた」「いるよ」声のする方を振り向いてケータイの光をかざすと、マーが手で顔を覆う。やめろよ、なんも見えなくなっちったよ。
 和文は再び前を向いて、一歩を踏み出す。もう波に飲まれてるよ。そーかもな、あ、でも電話してみてよ。呼び出し音が鳴ったら、まだ生きてるってことじゃねぇ。和文がリダイヤルボタンを押すと呼び出し音は鳴り続けている。それで、あ、鳴ってる、と少し大きな声でいったところで、ピーっという音が聞こえて急に波の音しか聞こえなくなった。「電池切れた」
「そこにいる?」「いる」「どこにいる?」「ここにいるってばさ」「マーが前歩けよ」「いやだ」「なんだよ、なくしたのお前だろ」「そうだけどよー、お前が前の方がいいじゃん」「なんでだよ、ってかもう探しようがないじゃん、何も見えねーって」和文が立ち止まると、背中にマーがぶつかる。マーの汗の匂いがして、なんだか少し安心する。
 とりあえず波の音と反対に歩いて、壁を見つけると背を預けてしゃがむ。マーがライターの火をつけようとするけれど、風が強くてなかなかつかない。波の音のする方に目をやると、音はさらに荒々しくなった気がする。もし波がここまで押し寄せてきたら逃げ場はない。背中を壁に預けて目を閉じる。心臓を感じているうちに、少しずつ呼吸が楽になっていく。

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