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小梅と豆餅|tsuzuki

「名前、ウメでいいやん、な、うめーうめー」名波が呼びかける。子犬は尻尾を振りってぽよぽよと歩きながら彼女の手に乗り、そのまま抱えあげられる。名波は「ちょっと今日蒸し暑いわー」といって自分のリュックをあさってから「ほい、出町ふたば」といって祐一が好きな豆餅を差し出す。
 東京本社で同僚に無視されるようになって一ヶ月、限界を感じた祐一は相談していた産業医の力を借り、知り合いのいない京都支社への転勤を希望した。ただ京都の味には閉口した。うどんも煮物もとにかく薄いし、変に甘い。けれどたまたま口にした出町ふたばの豆餅だけは塩の加減がちょうどよくて、本格的に甘い。歓迎会の時に隣にいて、ショートヘアが少し可愛いと思った名波にそんな話をしたら、ときどき豆餅を届けにくるようになった。それから流れで知り合いの家でチワワが生まれた話を聞いていたら、いつの間にか飼うことになっていた。
 お茶をいれたマグカップを名波の前におきながら「でもさぁウメじゃ、おばあちゃんみたいじゃん」と祐一がいうと、「かわいいじゃろ」といって子犬を撫でる。「そうしたら、名波はウメってよんだらいいよ。名前は小梅にするから」「なんなん、チビコイ反発、チビコイ歩み寄り。東京ん人はなんやらなー」といってからお茶を一口、ズズズと飲む。それから「お前の飼い主、がんこやで」と頬ずりして耳元に囁いている。
 中国地方の出身だという名波の言葉のニュアンスは、祐一にはよく掴めない。けれど目尻の下がった柔和な顔をしているから、悪い気はしない。
「おーいい匂いするのーあかちゃんはええのー」。 
 しばらくそうしてから「ほいじゃ、満足したわ。帰りますー」といって名波は立ち上がり、しゅっとリュックが擦れる音をたてて玄関に向かう。そうして祐一がじゃあと言おうと思った時には、小さく振られた手のひらが一瞬見えて、すぐにドアが閉まる。
 小梅はさっきまで名波がいたソファの匂いを嗅いでいる。よく見ると、小梅の鼻先に赤い格子柄の巾着が落ちている。祐一は急いで手に取ってマンションの階段を駆け下りる。けれど外に出た時には名波はいない。京都の自転車の例外にもれず、彼女のロードバイクもすぐにいなくなってしまう。
 部屋に戻ろうとすると、急に激しい音がした。空を割るような音。衝動に襲われたかのような雨粒がそこらじゅうの建物を叩きはじめる。歩いていた人は、近くの軒下に避難している。目の前は真っ白になり、ときおり飛沫が大きくなって、その飛沫に雨粒がぶつかる。一変した光景に祐一は目を奪われる。このまま何もかも白くなって消えてしまうような気がする。飛び出してその力に身を投げ出してしまいたい衝動に襲われる。けれどもちろん数分後には全てが元通りになることを祐一は知っている。そこまで思うと急に小梅が心配になって、祐一は急いで階段を駆け上った。

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