朝陽|hidemaro
午前二時半のアラームで目が覚める。三時間弱の睡眠で、頭はまだらに冴えている。洗顔と歯磨きを済ませ、寝癖を直してジャージに着替える。外に出ると、蛙の鳴声と虫の集く音が闇を覆っている。
古いダイハツの軽バンに乗り込んで、キーを回す。キーはスマートキーではなく、黒い合皮素材にDの文字が施された昔ながらのキーだ。与えられた部屋から店までは五分と掛からない。店には既に電気が灯り、作業している人の姿が見える。
「おはようございます」
「おはよー」
作業台の上を整理していた社員の小林さんは、笑顔で僕の気の無い挨拶に応えてくれる。しばらくすると、次第に店内に人が集まってくる。挨拶を済ましタイムカードを押すと、各々の定位置でトラックの到着を待つ。店着時間の午前三時まであと十分ほどだ。
トラックが到着すると、再生速度を二倍速に設定したかのようにみんなが素早く動き始める。七十を過ぎたミキエさんも大きな梱包を軽々と持ち上げ、仕分け台に並べていく。八十を過ぎたムラタさんは、既に配達用のカブを調整していた。ルーティンとは言え、その一体感と無駄のない動きには目を見張るものがある。僕は邪魔にならないように、手伝える範囲の仕事に取り掛かる。
僕の朝の主な仕事は配達エリア内に十三軒あるコンビニへの配送だ。お店ごとに納品数が違うので、紙を見ながら慎重に品を揃えていく。
皆はその間に配達用のカブを乗りこなし、颯爽と夜の闇の中へ溶け込んでいく。三時半を回る前には先ほどの喧騒が嘘のように、店内には誰もいなくなる。僕は用意した商品を配達順に積み重ね、軽バンに運んでいく。再びキーを回して、エンジンを入れるとFMラジオのボリュームを上げる。一軒目までは十分程。国道には車は一台も走っていない。
一軒目の店員は毎朝同じ、学生と思しきメガネを掛けた茶髪の男性だ。僕は毎日、大きな声で挨拶をして入店するが、彼から返事が返ってきたことはない。業務を済ませ、よろしくお願いしますと声を掛け出て行くが、帰りも彼の声を聞くことはなかった。
次に向かう道は街灯もなく、軽バンのライトだけが頼りだ。舗装もされていない道は、時折車体が大きく揺れる。忙しなさから来る高揚した気持ちは、車の振動と闇の深さで次第に落ち着いていく。
ダイハツの冷たく硬いハンドルを握り締めながら、アクセルを強く踏み込みスピードを上げる。まだ明けきらない金沢西地区は、夜と朝の境界だった。SNSで見る友人たちの新生活の様子が、とても輝いて見えた。自分だけが夜と朝の境界に取り残され、焦りや不安に絡みとられたまま、どこへも行けないのではないかと感じてしまう。
十軒目、僕は業務を済ませるとトイレを借り、缶コーヒーを購入しようと棚から手に取る。店内放送で、世界的に有名なイギリスのバンドの曲がかかっている。好きな楽曲で、僕は少しリズムに乗りながらレジに向かうと、店員の男性はもっと大胆にリズムに乗っていた。僕は思わず、いいですよねと声を掛ける。男性店員は恥ずかしそうにすいませんと言いながら、缶コーヒーを手に取り商品をスキャンする。店内には、僕ら二人しかいなかった。
「自分このバンドがめちゃくちゃ好きで、人生変えられたって感じで。どうしてもロンドンに行きたくて、向こうで音楽演るためにバイトしてるんです」
「すごいっすね。ロンドンで音楽とか」
「夢です。けど、絶対に叶えたくて」
彼のその強くはっきりとした口調に、僕は胸を衝かれた。車に戻ると、夜は明けようとしていた。陽は昇り始め、徐々に街を照らしていく。自分の中で、絡み合っていた何かが解けていくのがわかった。缶コーヒーのプルタブを引いて一口飲むと、僕は再びダイハツの黒く光るハンドルを握る。
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