俺は西川きよし(小さなことからこつこつと)派
このところ毎日続けているものが3つある。
ひとつめがこのnoteでのブログ、そろそろ100日目。ふたつめが「一日一越」というハッシュタグで、過去のベトナム写真にコメントを添えた投稿をSNSでしている。あと5日で一ヶ月。そしてみっつめが「1min1viet」という、最近はじめたばかりの動画の投稿で、10日目くらい?これはそろそろストックが切れるのであと一週間もしないうちに途切れるとは思う。
二ヶ月くらい前に友人から「継続できるのがすごい」と言われた。が、二ヶ月前なので当然これは一日一越のことでも動画のこともでなければ、この時点ではまだ一ヶ月経ったか経ってなかったかというブログのことでもない。べとまるという、2012年からはじめたベトナムサイトを指してのこと。でも、それがまさか「継続している」なんて思ってもなかったので驚いた。
というのも、べとまるを毎日更新していたとしたらそれはこの7年間のうちの二ヶ月間くらいの話だったし、ここ3年間、いやそれ以上の期間に至っては「片手間に気まぐれでつづけている」という自覚があったから。実行した今だからこそ言えることだが、「ベトナム語版をつくる」というクラウドファンディングについては、開始から5年も空いたことによる罪悪感がすごくあったので、むしろ自己評価においては「継続できない人間」という烙印を押していたくらいだ。でも彼には違って見えていたらしい。
思い返してみれば、細いものながらも自分がスポットライトを浴びたとき、具体的に言えばファンだと言ってくれる人が存在していたとき、ほとんどすべては継続してきただったかもしれない。高校から大学の頃までやっていたメルマガもそうだし、社会人でやっていたTwitterでの大喜利もそうだった。ざっくり言えば「ハマった」にすぎないんだけど、ただ自分自身がやりたいと思うとはまた別に、「できれば毎日続けたい」という完璧主義…というよりは潔癖症の方が近いところはあったのかもしれない。ハマれば強い、ハマらなければどうしようもない、そんな自分の一面を今さら知るとは。
そういえば、Twitterでの大喜利をやめた理由は、ベトナムに行って電車通勤がなくなったからだった。いつも帰宅途中にやっていたから。こんなIFを考えてもみっともないだけなんだけど、あれを続けていたらその方面(?)でひとかどの人物になっていた気がする。手前味噌だが、当時のあれを中心とした引力がすごかった。そのときできた・仲良くなった友人たちは公私ともにキーマンが多い。それ以外もふくめて、自分はどうも花を咲かせる前にやめるところがある(Twitterに関してはしょうがないが)。それが自分が続かないと思った所以か。そして話は現代に。今3つのことを毎日続けている。
人に会ったりチャットをしたりする中でしばしば、いずれについても言ってもらえるようになった。とくに動画については両手で数えるくらいの人に褒めてもらえているので、手応えを感じる。いかに時間をかけず・いかに強みを活かし・いかにそれっぽく見えるか、ということを自分なりに考えに考えてあの形になったので(試作動画もいくつかあるけどたぶん公開しない)、これは何度も言ってる気がするけど、本当にうれしい。数字はまだ付いていっていないんだけど、そのへんの対策はまだやってないし、知恵を絞ればきっとできるだろう。最近の持論は「ちゃんと調べればなんでもできる」だ。
手前味噌がつづくけど、文章関連でこれまで3つ賞をいただいている。自分はいろいろとちょっと早く、紛れもなくタイミングがよかった。ただその、いわゆる成功体験というものがあってか、「記事」という一発にばかりこだわりつづけてきたのかもしれない。でも、もしかしたら、というより過去をさかのぼって考えてみてもだ、自分は「小さなことからこつこつと」という西川きよしばりの継続的コンテンツの方が性に合っているんじゃないかな。
今度はちゃんと、花を咲かせるまでつづけたい。でないと老後も大変だし、ジリ貧じゃ結婚もできないしね。まぁ、ジリ貧と結婚は言い訳なんだけど。