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海外住んでも幸せにならない。何が変わって、何が変わらないのか。

大麻がそこらへんに生えている。
車のフロントガラスが割れているのが日常風景。
断水や停電が恒例イベントである国に住んでいる。

とりあえず、何かが変わるかもしれないと思って、20代の頃、何を言っているのかさっぱり分からない世界に飛び込んでみた。

でも、なーんにも価値観は変わらなかった。
倫理的に大麻は吸わないし、車のガラスが割れてても走ればそれでいいし、断水や停電も寝ていればそのうち復旧する。
何を言っているのかわからない環境にいるのも、むしろメリット。
罵倒されても何を言われているのか理解できないから、特に気にもしない。

そんな感じで、僕の鈍感さのせいなのか、価値観は結局変わらなかった。「世界を知って自分の小ささを知った」みたいな話は、正直まったく信じていない。ついでに言うと、大自然を見て自分の小ささを知ったみたいな話も嘘だと思う。草と自分を比較するなんて意味がわからない。

僕は根暗なのもあって、ここで「なんでこんなに価値観が変わらないんだろう?」と考えてみた。


ネットで、すぐに日本にいける社会

まず、環境が変わる、つまり海外に住むことで価値観が変わるという説について。
僕が思うに、野人みたいな生活をしない限り価値観なんて変わらないと思う。
だって、ネットがつながっていて日本語の情報にアクセスできるなら、そんなに変わるわけがない。日本にいたときスマホばっかり見ていた僕が、海外でもスマホを見ているだけだったら、どうして変わることがあるだろうか。

たまーに、海外で本当に野人みたいな生活をしている人を見かけるけれど、そういう人ってもともと野性的な人で、そもそも携帯を見る習慣なんてない人だ。その野性的な人に「前は何をしていたの?」と聞いたら、「農家でずーっと牛を追っかけてた」って言われた。何それ

もはや生活様式の話であって、価値観どうこうの話じゃない。

僕の住む国は牛行列が有名で、車が進まない。

変化したこと①:視野

確かに、視野が広がることはあった。たとえば、ベジタリアンを極めてレタスしか食べない人とか、バラをくわえて警察から逃げる人とか、四足歩行が趣味の人間なんかを見た。何、車力の巨人を目指してるの??

四足歩行で思い浮かぶこれ。

こういう変な人たちを見て「世界にはいろんな人がいるんだな」と思うことはあっても、だからといって僕の価値観が変わるわけではない。レタスより肉が好きだし、花をくわえて警察から逃げるシチュエーションにはならないし、普通に二足歩行で歩く。結局のところ、どんな刺激的な経験をしても、自分は自分なのだ。

日本の道徳教育や義務教育は優秀で、根暗ながらも常識を持って生きている僕に、それを外すほどの力は働かない。視野が広がっただけで、価値観はびくともしない。

変化したこと②:教養

変わったことといえば、教養はついたと思う。昔、読んだ本で、ライフネット生命保険株式会社の創業者である出口さんが、「教養を身につけるには『本』『人』『旅』の3要素が必要」と書いていたのを思い出した。今回の場合、「人」と「旅」が該当するので、そこにフォーカスしてみる。

宗教、地政学、言語学、食生活、娯楽の在り方など、住んでみて様々な人と接する中で考え方は広がった。一つ、宗教を例に挙げるなら、イスラム教徒が豚骨のカップラーメンを食べていたのには驚いた。彼は「ネットにより様々な価値観を知り、自分は進化した」と言っていたが、その後、少しビビっていたのか「大丈夫…今は神は見ていない…」と、都合の良い宗教観を話していた。こういう適応力は、良くも悪くも現代的だと思う。

この出来事をきっかけに、イスラム教の歴史について調べた。特に、政権が安定しないこの国では、トップ層が世俗主義とイスラム原理主義の間で規制を変え続けているので、勉強せざるを得なかった。宗教が社会や政治、そして個人の価値観にどう影響を与えるのかを考える機会にもなった。

こうした経験を通じて、教養ーつまり、学問、芸術、歴史、文化、倫理など、広い知識や経験を通じて得られる心の豊かさは深まったと思う。

でも、だから何? 価値観は変わらないけど。

普遍的なこと:価値観

ここまで書いて、結局価値観は変わらなかった。だから、新しい自分探しをするために海外に行き、価値観を変えようとするのは、僕はおすすめしない。

ここまで書いてきた通り、普通の精神力では日本語にアクセスしちゃうし、常識も外れない。環境が変わったからといって、根本的な価値観が揺らぐことはないのだ。

そもそも、価値観って変える必要があるのだろうか?

僕の考えでは、価値観というのは、それに沿った人生を豊かにするためのものだ。つまり、価値観は自分が幸せになるための指針であり、むやみに変えるものではなく、むしろ大切にすべき「核」だと思う。だから、自分の価値観に気づき、それを雑にでも定義しておくことの方が重要だ。それが「自分らしい幸せ」に繋がる。

最も重要なのは、普遍的な真理を発見することではなく、自分自身にとって意味のある真理を見出すことだ。

キルケゴール「哲学的断片」における主張の一つ

一方で、視野や教養は確かに広がったと思う。宗教や歴史、言語、文化、食生活などに触れることで、自分が知らなかった世界を知る機会は増えたし、それは確かに知的好奇心を刺激する楽しい経験だった。

でも、それは「自分の価値観を変えるため」ではなかった。それらはあくまで知識の蓄積であって、僕自身の幸せに直結するわけではない。むしろ、視野や教養は、自分の価値観を再確認するための補助的なツールだと思う。

結論:海外に住んでて価値観を定義できた出来事

最近の僕が価値観に気が付けた出来事は、海外での事象による要因ではない。友達と一緒にやった星のカービィーであった。

三十路であるが、めちゃくちゃ面白かったし、カービィーが可愛かった。

よくよく振り返ってみると、スーパーファミコンの『星のカービィ スーパーデラックス』が僕は好きだった。メタナイトは100回は倒したと思う。データも100回は消えたけど。
結局、子供の頃と全く変わらない。無邪気にゲームを友達と遊ぶ時間が、結局は一番楽しい。これが僕の価値観なんだと思う。

つまり、僕の価値観は「友達とゲームしてなんとなく遊ぶと楽しい」という、綺麗に言語化できていないし、粒度が粗いものに落ち着いた。これを深掘りする必要はない。だって、ゲームを変えて友達とまた遊んだら、きっと楽しいから。それで結果として楽しければハッピーなのだ。

視野や教養を広めて深めても、結局、価値観は変わらない。それはそれで、知的好奇心を刺激する楽しみではあるし、飲み会で「おもしろーい」と言われるための話のネタにはなる。でも、それは幸せの核ではない。僕にとって価値観とは、自分らしい幸せを導くための、変わらない指針だ。

だから、新しい価値観を探し求めるよりも、今の自分の価値観を見つめ直し、それに忠実でいる方が、よっぽど人生を豊かにする気がする。

海外に行く前に、星のカービィーをやって過去を旅してみるのも悪くないよ!


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