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書くということ
色々と思うことがあり、新たなスタートとして、noteを書くことにした。
書くことで整理することができることもあるし、強い感情を昇華させることもできるかも知れない。
私にとって、書くという表現が有効な手段と感じたのは高校生の時。
高校の国語のT先生が俳句や読書感想文などを評価してくれたのがきっかけ。
朝礼でT先生は良い俳句を3首読み上げるコーナーを何故か持っていた。
みんなの前で読み上げられると、恥ずかしいと思う心と、自分のちょっとユーモアを入れたところを褒めてくれたし、俳句で他者がウケることに驚いた。
575に囚われすぎず、字余りや字足らずでも表現したいことを伝えることの美学は、T先生から教わったことの一つ。
文章で人に伝えられるんだ、ウケるんだと知る原体験となっている。
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小中学生の頃は漫画を描いてクラスの友達に見せていたから、絵で楽しませることを自分の表現としていた。
ただ絵を描くスピードとお話の展開が思い浮かぶスピードが一致していなかった。
画力も自分より上手い人は多い。
中学時代は今も仲の良い親友と合作で描いていた。そして彼の方が絵に迫力があるし、丁寧だった。
例えば野球で投手が投げるシーン、私はスピード感を出す線を手描きで描いた。
彼は定規で丁寧に描く。
合作漫画は交換日記のように交互に描いて、お互いがどんな展開にするかを楽しみにしながら描いていて、とても楽しかった。
同時にお互いの創作スタイルの癖が出て、私はストーリー展開を考えるのが好きで、親友は迫力あるシーンを描くのが好き。
なので、私に続きが来るときは、「後の展開は任せた」という感じでここからどうピンチを切り抜けるかわからない劣勢の戦いの途中で渡された。
またあるときは主人公が死んでいて、仲間達が悲しみにくれ歩いていると、何故か主人公そっくりの男が神輿に担がれて現れる(滅茶苦茶だよ……)ところで続きを任される。
「この後どうすんのさ?」というと「考えてない」というやり取りをして二人でよく笑い合ってたのはいい思い出。
思春期になるとストーリーや人間関係がないと、野球や格闘技の試合だけする漫画では満足できなくなっていた。
ストーリー(ネーム)は自分がやって、親友に絵を担当してもらい、漫画家を目指す提案をしたこともあるが(本人、覚えているだろうか?)、彼は進みたい道は違っていて、漫画のコンビとして描くのは中学卒業と共に終わる。
今の私は文章、言葉を再履修として教えてくれる学校に通っている。
面白いもので、過去の親友との漫画経験が、無茶な展開でも書くことで物語として成立するように書ける。
以前学校の課題で即興で20分で書く課題もあったが、その時の特別講師の方からもクラスの仲間からも好評価。
あの頃の感覚が生きているのかなと思う。
そしてまた新たな分岐点にいる感覚もある。
好きなことに挑戦する、取り組むということは傷つくことも大きい。
講評で的確な批判や、構成のより良くするための指摘は「なるほど」「プロットを再構築しよう」と思うことも多い。
自分の中から生まれたものだから、そりゃあ批判が堪えることも。
マウントやバカにするだけの否定には黙ってられないが、文章を磨くことにつながる批判や指摘は有り難い。
まだまだ私は成長するんだ!
今日はここまでにしようかな。
果たして続くのでしょうか?
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