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「おかえりモネ」は福島を忘れていない〜八重の桜オマージュなど

2021年度上半期に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」は、東日本大震災から10年ということで震災からの「心の復興」が中心テーマに据えられた。宮城県気仙沼市の大島がモデルの離島を中心に、主人公・永浦百音(清原伽耶)らの震災後の歩みを描いた。震災を正面から扱った本作だが、同じ被災地の福島県は一度も登場しない。私も含めて大多数が好感を寄せる本作だが、Twitter上では「福島が忘れられている」などの否定的な意見も見られた。確かに福島は登場しないが、果たして本作は福島を忘れているのだろうか。

1. そもそも…なぜ、福島を描かなかったのか

そもそも、15分が120話で30時間の長尺がある本作で、震災がテーマなのに福島が言及されないのは尺の問題ではないし、岩手と合わせて全く触れられないのは不自然だ。

誰もが知るように福島は原子力災害を複合したことで他の被災地と異なった困難さを抱えている。放射性物質の飛散により現在も居住できない地域があり、居住可能になった地域でも住民帰還は限定的だ。廃炉作業は少なくとも今後数十年かかる。

こうしたことを踏まえると、「福島固有の問題に向き合わずに震災に向き合ったと言えるのか」という疑問を生じさせる。心の復興でいえば、離散してしまった避難区域の子供達のその後を見つめずに、そのテーマに取り組んだと言えるだろうか。

しかし、もう一方では、地震津波被害が中心の宮城県とは被害の性質が異なるため、同じ作品の中で描くには困難さが伴うというのもまた事実だ。東京電力による賠償など現在進行形の政治的イシューが多いことも逆風だ。

また、災害が起こったメカニズムについても、自然災害の地震・津波に焦点を絞れば、豊かな自然環境や農林水産業、気象予報士の仕事と繋がりがあってストーリーをまとめやすくなるが、原発となるとテーマが広がり難しい。また、福島では町の元あった姿を取り戻すことも苦難を強いられる現状を鑑みると、主人公が困難さの中でも「前向きに」奮闘する展開が求められる朝ドラという形式内で扱うのは困難そうだ。

さらにそもそもの話だが、観光振興を含む被災地応援として考えると、朝ドラ・エール(2020年)が福島市を舞台にしていたことこそ今作で福島が登場しない大きな理由だろう。あまちゃん(2013年)は岩手県が舞台だったので、おかえりモネで宮城を描くことで、甚大な被害を受けた3県を被災後に舞台として取り上げたことになる。実際にはこちらの理由のウェイトもかなり大きいだろう。


2. でも…随所に福島への意識を感じる(少し!)

理由はいずれにせよ福島が登場しない本作だが、私の受け止めでは、福島を思いださせる要素がわずかながら含まれていると感じた。14週「離れらないもの」で描かれる土地を介した人の繋がりのかけがえのなさは、福島事故で失われたものの大きさを想起させる。また、本作では福島・会津地方を舞台にした大河ドラマ・八重の桜(2013年)へのオマージュが随所に織り込まれていて、八重の桜を他県の人より熱心に視聴していたであろう福島の人はより深みを感じられるようになっている。順に見ていきたい。

2-1 第14週「離れらないもの」は原発被災を想起

14週「離れらないもの」では、1週間をかけて表題のテーマが描かれていく。東北の架空の町で土砂災害が発生する。幸い人的被害は出なかったが、67話では情報番組の気象コーナーを担当するチーム内で議論が起きる。朝岡覚(西島秀俊)は、その町では数年前から同様の災害が繰り返し起きていると振り返る。気象の変化でそれ以前より甚大な災害が起こりやすくなっているという。

「もはや住めなくなってるとか」「もうその土地を離れるしかないってことか」と意見が続くを、朝岡と百音が同時に遮る。百音はゆっくり、感情をのせて「無理な話じゃないでしょうか」と言葉を続ける。百音自身は地元を離れているが、苦しみを抱えながらも地元に残る妹の姿、百音の祖父や幼馴染など漁師が「海に恨みはない」と海と共に生きる道を選んでいることが、すでに描かれていて、それらを踏まえての発言と理解できる。

その後、69話で朝岡と百音の父・耕治(内野聖陽)が話すシーンでは、「(海や土地から)離れらないものなんでしょうか」「土地に暮らすのはどういうことか」と問う。「命を引き合いに出して大切なものを捨てろと言うのは部外者の暴力でしょう」とも話す。

耕治は「海とか土地にだけ根づいているわけではない。(中略)人なのかなあ」「そこに生きてきた人たちの、(略)海育ててくれた人たちの愛情、思いに報いなければという情みたいなものが染み付いてるんでしょうね」と答える。朝岡は「土地ではなく人ですね」と応じる。

これらは直接的には、地域での歴史や共同体を維持することを、自然災害のリスクとどう折り合いをつけていくかというテーマだ。一方で、ここで示されている「地域の人が織りなしてきた歴史や関係こそ、かけがいのないもの。たとえ命のリスクがあっても離れがたい」という考え方は、裏返すとまさに、福島事故で失われてしまった関係性の喪失の大きさを想起させる。福島で起きてしまった離別・喪失の悲しみを知る人、思いを寄せたことがある人は、この週のテーマに福島の状況に通じるものがあると感じるのではないだろうか。

2-2 大河ドラマ・八重の桜へのオマージュ満載

次に八重の桜を思い起こさせる点について取り上げたい。まず、西島が演じる朝岡の設定やセリフに八重の桜での山本覚馬役を想起させるものがある。

5話で北上川の霧を見ながら話す印象的なシーンで、百音は震災の時に「何もできなかった」と後悔を述べる。それを受けて、33話で朝岡は「何もできなかったと思っているのはあなただけではありません」と話す。八重の桜での山本覚馬もまた、負傷が原因で故郷・会津が戦乱に巻き込まれるのを止められなかった。

また、おかえりモネで、妹・未知が津波を見ていない姉・百音に「分かんないからか。お姉ちゃん、津波、見てないもんね」(20話)と言う描写が出てくる。八重の桜ではこちらも妹・八重から兄・覚馬に、「あんつぁまは分かってねえ。あの時お城にいなかったから」(32話)と言い放つシーンがある。

そして、朝岡の名前である覚(さとる)は、覚馬からとっていると考えられる。さとるという読みは作品に宗教的なモチーフが頻出することから「悟る」の意と推測されるが、あえて読みづらい「覚」の字を当てているのは、八重の桜へのオマージュだろう。

また、八重の桜で「什の掟」の「ならぬものはならぬのです」が作品を象徴する言葉として何度も登場するように、本作では伊達政宗伝として「五常訓」が登場する。朝岡の「大事にしてきたことは大事なんです」(70話)と言葉を重ねる表現は、「ならぬものはならぬ」に似ている。

こうした役柄の共通点や、交わされるセリフの中に、単体の作品だけでは持ち得ない深みが生まれている。八重の桜に携わたスタッフがおかえりモネで制作統括を務めていることが、様々なモチーフを取り入れている背景だろう。こうした点に、八重の桜を特に熱心に見ていただろう福島の人は、どことなく既視感を覚えたのではないだろうか。


3.まとめ…おかえりモネは「東北の物語」

ここまで見てきたように、本作には直接福島への言及はないが、どことなく福島を感じられるようになっている。作品全体を通して、気仙沼だけでなく福島や、もちろん岩手に共通する部分がほとんどだ。製作陣も「震災でなく東北の物語」と表現していて、東北が強く意識されている。私も「東北の物語」として捉えて、引き続き思いを巡らせていきたい。


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