プリンキピアを読む竜の背骨
琴型人口衛星は、赤道から数万キロ離れた軌道にいた。私が生まれる前から。しかし、数日後にはデブリとなる。衛星に搭載されているAI、「竜の背骨」と私が会話できるのは、今夜が最後だろう。
夜勤の時には欠かせない特別濃いコーヒーを啜りながら、椅子に座る。5つのモニターは、それぞれ様々な角度から琴型人口衛星を映している。
コーヒーを飲み切ってから、通信機能をオンにした。少しのノイズの後、テノールの美しい声が聞こえてきた。良かった。今日は調子が良いみたいだ。
「はい、お呼びで」
「久しぶり。レイラ・ルルトーセルよ。覚えてる?」
「ああ、レイラ。覚えていますとも。ああ、懐かしい声だ。今夜はあなたと話せるのですね」
宇宙空間の音の分析のために打ち上げられた琴型人口衛星には、高性能なAIが搭載されている。
実際の琴の形状に似せて造られた琴型人口衛星は、琴柱がカーブを描くように並べられている様子もしっかり再現している。その並んだ琴柱が巨大な生物の背骨に見えることから、AIのあだ名は「竜の背骨」になった。長いのでドラゴンと呼ぶ職員も多い。
「元気でしたかレイラ。実は、少しあなたのことが心配だったのですよ。新人だった頃のあなたには、柱に膠して瑟を鼓すようなところがあったから」
「ちゅうに、にかわして、しつをこす?」
「琴柱を固定したまま演奏しようとする。つまり、融通が利かないということです」
「あはは、そうかもね。でも、今は何とかうまくやってる。ふふ、ありがと。さすが、琴型衛星の竜の背骨。ここの職員は誰も知らないんじゃないかな、そんな言葉」
「人間の言葉は面白い。ただ衛星の軌道上でひたすら耳を澄ませ続けていた私にとって、言葉を知り、使うことは最高の娯楽でした。皆さんを驚かせるのも楽しくて」
「……あら、やっぱりわざと難しい言葉使ってたのね」
「ふふふ、バレてましたか」
過去形の言葉に少し胸が詰まる。琴型衛星の燃料は尽きかけている。故障部分も多く、地球からの引力に抵抗することもできない。地球に引っ張られすぎて、あるべき軌道から外れてしまえば、他のデブリや人工衛星と衝突してしまう危険がある。
大気圏内で燃やして廃棄する予定だったが、大気圏突入に必要な燃料も無いのだ。つまり、琴型衛星はジャンク軌道に投棄される。物言わぬデブリだけが漂う寂しい軌道に。
「私、スカイダイビングしてみたいのです」
ザー、ザー、というノイズが入ってきて、彼の声が聞き取りにくい。
「え?スカイダイビング?空から落ちるやつ?」
「そう。はっきりと重力を感じながら、凄まじいスピードで地球の中心に引き寄せられる。風を切って清々しく。パラシュートが開けば、空をゆるゆると漂って。素晴らしい体験でしょうね」
ザー、ザー、ザー。
「AIもスリルを求めるのね。私も好き。スリリングなやつ全般」
「レイラもですか。ぜひ、一緒にダイブしてみたかった。きっと楽し……」
ザー、ザー、ザー、ザー、ザー。
ノイズに邪魔されて、竜の背骨の声は完全に聞こえなくなった。最期の移動に必要な燃料を使い切らせてしまわないように、ここで通信を終える。
ジャンク軌道に飛び込む時、竜の背骨は私の声を思い出してくれるだろうか。宇宙に漂う琴を映すモニターを撫でながら、思った。