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どんな自分になりますか?

 ねこっちです。

 うつ病の療養をしていると、「自分とは何か?」と考えることがあります。これ自体は一般的な問いですが、その中身はかなり重要なことのように思います。

 晴れた日に、窓の外を眺める中でこの問いを深めてみると、「自分とは常に移ろうものだ」という一つの考えにたどり着きました。

 この記事では、流れる水のように移り変わる「自分」について考察してみようと思います。


感情移入

 この療養中に出会った漫画に、『うちゅう人 田中太郎』というものがあります。

 この記事を書いている現在の時点で、私はYouTubeで公開されているアニメ版を12話まで見ました。劇中、常に予想を上回る展開が続き、20分程度の1話をあっという間に見終えてしまいます。

 私は、作中で描かれる太郎君やタカシ君などの登場人物に、しばしば感情移入します。では、この感情移入とは何でしょうか。

 それは、自分がその登場人物になり切るということだと思います。登場人物と同じように感じ、同じように笑うのですね。

 上映中の時間は驚くほど速く過ぎ去ってしまうのですが、これは自分という存在が様々なキャラクターにものすごい速さでなり切っており、それが連続しているからなのでしょう。

 このことを一般化すると、自分というのは固定された存在ではなく、その時々で様々な物事になり切ることができる主体のことを言うのでしょう。

 この「なり切る」というのが、本記事では大事になってきます。

夢中になる

 私はしばしば物語を書きます。今年の3月には、ある物語を書きすぎて精神的に参ってしまったほどでした。なぜ物語を書くのかというと、それは夢中になりたいからです。

 幼いころは、自我が発達しておらず、自他の分別が未熟であることから、外の世界の物事に、すぐに夢中になれていました。前節の言葉を使えば、外界の事物に「なり切っていた」のですね。

 ところが、段々大きくなってくると、カメレオンのように様々なものになり切る自分を客観視する「もう一人の自分」が育ってきます。そこで、「恥ずかしい」やら「みっともない」やらと言った感情を自覚するようになり、何かになり切ることに対して心を閉ざしてしまうようになっていくのです。

 すなわち、そう簡単に夢中になることができなくなっていくわけです。これは私も例外ではなく、そこで物語を書いてその世界に没入し、自分がその物語の人物になり切ることで、夢中になれる時間を作っていた、というわけです。

なり切ることの不変性

 何かになり切ることなんて、大人になった今はもう無いなァ、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、自分が何かになり切るというこのことは年齢にかかわらず不変的なことではないか、と思います。

 選挙でだれに投票しようか、と考える時も、その立候補者や国民になり切って、自分だったらどんな政策をしよう、この人のもとでの国民だったらこんな政治は嫌だな、と考えるから、選挙本番で、投票用紙に立候補者の名前を書けるのではないでしょうか。ただなり切る対象が違うだけで、この現象はいろいろなところにあるのだと思います。

 私がこの不変性を感じるのは、うつ症状として現れるフラッシュバックの時です。フラッシュバックは、ただ過去の先生の怒鳴り声が音声として現れただけでは起こらず、過去に嫌な思いをした自分になり切ってしまう時に、不快感や怒りが出て来るのです。フラッシュバックに悩まされていた時は、もう自分は終わった人だ、とか、自分が何かに夢中になることはもうできない、というように悲観していましたが、そのフラッシュバックの最中にも、なり切っている自分は形を変えて存在していたのですね。

なり切ることを肯定する

 「自分とはこういうものだ」と頑なに決めてしまっていた時期は、不安定な時期が多かったです。それは今思えば、自分というものが「なり切ること」の連続で成り立っている「移ろうもの」だからでしょう。

 川を無理にせき止めれば、川はよどみ、洪水の時にあふれてしまいます。同じように、移り変わる自分をその場にとどめておこうとすれば、どこか不機嫌になってしまい、なんとなく充実しないような感じがし始めます。

 私が「自分は障害者だ」とか「自分は内気な人間だ」というように決めつけていたころは、どこかすっきりしない毎日でした。それは様々なものになり切って移り変わろうとする自分を「障害者」「内気」という一か所にとどめておこうとしていたからなのでしょう。

 今の自分が何にでもなれることを肯定し、移り行く自分を認めて外の世界に目を向けてみると、外の世界は子どものころと同じように眩しいほど輝いていることに気づきます。

どんな自分になりますか?

 自分とは移り行く主体のことである、そして自分は何にでもなれるのだ、ということを上で述べてきました。

 自分が何者ではないのだとしても、様々なものに移り行く主体であることには変わりないのです。

 私は、一度しかない今を、望まないものになり切った自分で過ごすのはもったいないと感じます。そこで、今を楽しく過ごそう、と考えるわけです。

 かつて私は、大人になることを怖がっていました。それは、大人になると、今もっている「恥」や「みっともなさ」の客観的な物差しが自分を覆いつくしてしまい、様々なものになり切ることや、そこから生まれる「夢中」や「没頭」の境地を忘れてしまうのではないか、と考えていたからです。

 しかし、記事の途中で見てきたように、何かになり切る自分はどんな時も不変的で、それは消える事のないものです。客観的物差しがあっても、自分はやはり何かになり切って生きているのです。

 そうであれば私は、何にでもなり切れる自分を肯定し、今を楽しもう、と改めて思ったのでした。

 ですから、私はより楽しい気分になれる何かになり切って今日の自分を営もうと思います。

 よりよい今日のために、この画面の向こうのあなたは、どんな自分になりますか?

  今日は今年初のクマゼミの声を聞きました・ねこっち

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