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「平穏の意味で最適な視点」の意味と考察 ~視点で考える「心の安定」から「個性」まで~

 ねこっちです。今日は、「視点」という概念についてやや深く考察してみようと思います。


視点原理

 まずは高校3年の時に考えた「視点原理」と言う概念について紹介します。視点原理とは、

同じ物事でも、視点を変えて見れば生じる感情が変わる。

という、直感的に当たり前のことを述べた「原理」です。

 例えば、リンゴという物事を、「食いしん坊の視点P」と「画家の視点Q」の2つで見てみましょう。すると、

Pからは「美味しそうだ、食べたい!」
Qからは「どの角度で描けばいい絵になるかな?」

というような感情が生まれることと思います。同じリンゴであっても、見方を変えれば異なる感情が出る、ということ、ただそれだけのことを「原理」として述べたのがこの「視点原理」です。


平穏の意味で最適な視点

 視点によって感情が変わるということは、その感情の「良し悪し」も視点によって変わるということを表します。つまり、同じ物事であっても、見方を変えれば楽観的になれたり、はたまた悲観的になったりすることがあり得るわけです。

 ここで、「平穏の意味で最適な視点」と言う言葉を次のように定義します:

定義①(平穏の意味で最適な視点)

ある視点Pが「平穏の意味で最適な視点」であるとは、その視点をもつことで最も心が安定することをいう

 例を述べます。

例:物理の勉強をやる時、次の視点P1、P2を比べると、P2のほうが「平穏の意味で最適な視点」となる:

P1=「演習問題が分からないというのは、問題はただそこにあるだけなので、それが解けない人間のほうが悪い。」
P2=「物理が楽しい。演習問題が解けなくとも、思考を巡らせた時間が何よりも生き生きしている。」

 この2つの視点を比較すると、P1は「確かにその通り」かもしれませんが、こんな視点をもっていては分からない問題に出会ったたびに自己嫌悪になり、演習問題ができなくなってしまうので、この場合はP2が「平穏の意味で最適な視点」となります。

 逆に、平穏の意味で最適な視点が定義できるということは、その逆も定義できそうですね。つまり、持っていると心が乱れていく視点、というのも存在しそうです:

定義②(禁忌肢)

ある視点Qが「禁忌肢」であるとは、その視点をもつことで、心がどんどん乱れていくことをいう。


 かつての私の悩みには、禁忌肢に支配されてその状態から抜け出せない、というものが多かったように思います。(詳細はグロテスクなので割愛します。)


よりよい生活を送るには

 上記の定義から、次のことが分かります:

よりよい生活(より幸せな生活)を送るには、自分にとっての「平穏の意味で最適な視点」をもつことが大切である。

 冒頭の「視点原理」で述べたように、物事を見る見方はいくらでも存在します。そして、それらの視点それぞれに対して、異なる感情が発生するので、その感情のうち、最も自分が安心できるものが生じる視点を選べばよい、ということです。


「平穏の意味で最適な視点」を考察する

 では、この「平穏の意味で最適な視点」をもう少し考察してみましょう。

 平穏の意味で最適な視点は、人によってさまざまに異なるものが存在します。前節「よりよい生活を送るには」の太字部分で、「自分にとっての」と付したのはこれが理由です。

 例えば、「平穏の意味で最適な視点」を説明するために例示した2つの視点

P1=「演習問題が分からないというのは、問題はただそこにあるだけなので、それが解けない人間のほうが悪い。」
P2=「物理が楽しい。演習問題が解けなくとも、思考を巡らせた時間が何よりも生き生きしている。」

について考えると、実はP2よりもP1のほうが「平穏の意味で最適な視点」となる人が存在します。

 それはどんな人かと言うと、「いかなる問題も一瞬で解いてしまう超人」です。そのような人にとっては、P1は当たり前で、P2のように分からない時間にあれこれと悩むという行為は恐ろしく「無駄なこと」にうつってしまうことでしょう。

 そのような超人にとっては、私たちが安心するP2のほうがむしろ禁忌肢なのだと思います。

 さらに考察を進めます。「平穏の意味で最適な視点」というのは、人によって異なるものが存在するのは上で述べた通りなのですが、実はこれは同じ一人の人であっても、ライフステージごとに異なるものになりえます。

 これは次のようなことを考えればわかります。私のような物理好きからすれば、P1とP2ではP2のほうが「平穏の意味で最適な視点」です。しかし、まだ問題演習をしたことがない「幼い子ども」がいたとすると、その子にとっては「問題を考える」と言う行為は未経験ですから、P1もP2も変わりません。まだ想像ができないのですね。

 このことは逆に考えると、面白い結論に至ります。それは、経験があるから「平穏の意味で最適な視点」が定まるのだ、ということです。

 幼い子どもが問題演習を想像できず、まだP1とP2の違いがわからないというのは、言い換えれば経験がないということであり、これは「P1とP2の違いを作っているのは経験である」ということと同じです。そのため、その視点が良いか悪いか、というのは、経験があるが故のことなのです。


まとめると次のようなことになります:

「平穏の意味で最適な視点」や「禁忌肢」のような、視点の違いによる心の動きは、一つにはその人の経験によって決まる。

 もちろん、経験以外にも本能のような感じ方や遺伝のような因子も影響する可能性は否定できませんが、物事を見る視点に良し悪しがあるのは、その人の経験によるところが大きいと考えられます。


視点の分化

 前節の結論に書いたような、「視点の良し悪しが経験で決まること」を「視点の分化」と呼ぶことにします。

 幼いころは、視点が分化しておらず、どのような視点もまだ平等な立ち位置です。まるで先ほどのP1とP2に違いがなかったように、どの視点に立っても生じる感情に善も悪もないのですね。


 一方、ある程度の経験を持った人(これを「大人」と呼ぶことにします)は、視点が分化しているので、自然と「平穏の意味で最適な視点」を選ぶように物の見方が変化していきます。その結果、選ばれない視点というものが存在するようになり、物の見方が無意識のうちに同じものになっていきます。

 幼い子どもが、時折本質を突いたことを不意に言ってしまうのは、このように様々な視点を自由に行き来出来ることが関係しているように思います。数年前、車のCMか何かで、洗車機を出た車に乗っていた子どもが、母親とみられる人物に「どこ行きたい?」と訊かれ、即座に「星!」と言っていたものは印象的でした。


 私は、過去に様々なことに悩み、その中には命を絶つことを考えたいともった強烈なものも多くあるのですが、そのほとんどが「子どものような発想を失いたくない」というものでした。平たく言えば、「つまらない大人」になりたくない、というのが悩みの動機だったわけです。

 しかし、上の結論が示すことには、人は経験を積むと視点が分化し、選ばれなくなる視点が存在するようになり、どうしても、ある程度の思考の画一化は防げない、となります。では、私のように思っている人は、救いようがないのでしょうか。

 そんなことはない、ということを、以下、簡単に考察して終わりにします。


オリジナル世界で未分化を大事にする

 以下で書くことは一つの解決案にすぎませんが、実行すればその効果は大きいと思います。

 子どものような心を大事にしたいのであれば、「視点を分化させない、現実と隔離されたオリジナル世界をもち、その中で自己表現をする」ことができるかと思います。

 ここで「現実と隔離された」というこの部分が最も大事で、かつ最も難しいです。「承認欲求」という言葉があるように、人には自分を認めてほしい、という思いがあります。一方、現実と隔離するということは、その世界を一切承認されないことを覚悟する必要があります。

 ではその世界で何をするかといえば、自分が正しいと信じてきたり、安心できると思ってきた視点を思い切って無視し、全ての視点を平等に扱って様々に考え、そして楽しむことです。

 一般には悪とされることをやったらどうなるか妄想するのもよし、こうなったらいいなという世界を自由に描いてみるのもよし、自分だけの絵や物語を書いてみるのもよしです。

 ここで大事なことは、「未分化である視点を大事にする」ということです。あらゆる考え方や物事を、ここだけでは平等に扱い、それを楽しみます。現実を隔離する必要があるのは、他者に迷惑をかけないことと、その世界が自分の生活を冒さないようにする必要があるためです。

 私は、この「未分化なオリジナル世界」を大事にしています。そして、その世界からこぼれる雫のような、小さな成果物を、時折、「絵」「キャラクター」「思考」「数式」「短歌」という形で、このnoteにも書いています。

 今の私があるのは、この世界のおかげなのです。


最後に

 今回は、「視点」という観点から様々な物事を考えてみました。「視点が違えば感情が違う」という一般的事実から、一見分かり難いことまで言えてしまうのが面白かったです。

 ちなみに、今回書いたことの最終節で述べた「オリジナル世界」が、人の「個性」を作っているのではないか、と思っています。

 対人関係を歩むうえで、人は「常識」という着ぐるみを着ており、人はそれを脱げば、相手がいくら驚いても驚ききれないような「違い」がある、とこの引用記事では述べられています。

 この「違い」が個性であり、そのもととなるのが「オリジナル世界」であるとすれば・・・。

 そうです、この「オリジナル世界」と対極をなす物事こそが「常識」であり、私を含め、人はこの両者をどう両立するかという絶妙なバランスの上に生きているのです。

 かつて私は、「ヒト化」という悩みに悩んでいました。

 「ヒト化」というのは、常識を大事にする(常識に適合する)あまり、オリジナル世界までもが常識に飲み込まれれしまった人のことを言います。社会に出ることはほぼすべての人が通過する大事な節目ではありますが、それを経験したら最後、私のオリジナル世界は常識に染まってしまうのではないか、そう憂いていた時期があったのです。

 「人」や「ひと」と書けば温かみがある、生きていると思える「人間」ですが、「ヒト」と書けば動物の類別のような、どことなく無味乾燥で生命観のない存在に見えてしまう。そこで、私は「常識に飲み込まれた人」を「ヒト化された人」と呼んで怖がっていました(2019~2020年)。

 これは私にとって、それほどまでに「オリジナル世界」が大事であることを示しています。


 このオリジナル世界と、それを守る方法について、安心できる解を得たのが浪人時の時だったのですが、それはいつの日か1冊の本にしようと考えている内容なので、ここでは触れずに置きます。


 この本は、オリジナル世界を持ちたいと思っている一方、常識などの社会的圧力に困っている人をはじめとした、子どものように生きたいけれども大人に疲れた、と思っている人や、自分の人生はこんなはずではなかった、と思っている人など、様々な人に届けたいと考えており、2020年からずっと構想を練ってきて今に至るものです。

 何回か原稿を書き直していますが、どの原稿も私自身の視点の変化に耐えられず、いまだ完成していません。しかし、コンセプトは一貫して視点の変化に耐えています。


 もし、この本についてご興味のある方はご一報下さい。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。よい一日をお過ごし下さい。


    ねこっち

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