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時は無常、私は無情。
「あ、個性が消えたな」と、思うときがある。
いつも文章を読みながら、このひとはどんなひとなのか想像をふくらませている。それがある時、パタッと消えてしまうのだ。好きな文章を読んでいると、影響されてしまうのはだれにでもあること。でも、自分が消えてしまうぐらい"ウケている文章をそのまま真似する"ものは読みたくない。
"祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり"
平家物語にそんな一文がある。
わたしはこれをずっと、「死」のことを書いていると解釈している。ほんとうの意味なんて知らない。見てない。知りたくない。文章ぐらいわたしの見たものが全てにさせてね。
「鐘の音ですら毎日変わってしまうのだなぁ」
と、誰にでも永遠はないことを気付かされて、悲しみに暮れる。
「だから、あのひともこの世からいなくなってしまったのかな」
そんな気持ちを表していると解釈している。
国語の授業でこの文章に出会った時、考えた。考えて考えた。先生が正解を言う瞬間なんて聞きたくなくて、耳を塞ぎたくなった。国語と道徳に正解はいらない。考えたことがすべてだから。正解があると、せっかくの個性が工場を通ったように、真四角になっちゃう。
それが、わたしは嫌だったのかもしれない。
不登校になるずっと前から、国語の時間は窓の風景を眺めて、空想にふけっていた。
国語のテストはいつも90点を越えていた。
なのに、いつも通知表に並ぶのは、3だった。5段階中、3が国語の欄にいくつも並んで、「なんで」と泣き叫びたくなった。
「ダメだったの?」「話を聞かないのが?」「テストの点数はいつも満点に近いじゃん。」「課題だって提出したよ。」
きっと、尖りすぎている個性を国語の先生には受け入れてもらえなかったのだろう。
それが、教育ですか?
そんなことが積み重なって、どんどん人が信じられなくなった。
もちろん違う先生もいたことを、当時は見ようともしなかった。
だって、また嫌な気持ちになるのを避けたいから。私がいくら不登校になって、駄々をこねても寄り添ってくれる先生もいて、「迷惑をかけたなぁ」と思うだけ。
昔から情が薄くて、卒業式だって涙を流さなかった。
いつからか、こんな風になってしまったのか。
感情が私にあるのか「本当の私はどれなのか」ずっと考えている。時の流れのうちに、「私も、人間らしくなれたらいい……」と思ってたけどよくない。それは私じゃない。そういうことなんだよ。人の文章を真似して共感を得るということは、こころが消えてしまうに等しいの。
だから……
わたしは、スキが減っても、このまま自分らしい文章を書き続ける。