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星野源「うちで踊ろう」が苦しかった

2020.4.3

約1分の動画がインスタグラムに投稿された。

星野源の「うちで踊ろう」。

iPhoneで撮影されたというその動画には、星野源が自室で使い古されたアコースティックギターを弾き語る姿があった。

新型コロナウィルスが流行し、東京オリンピックが延期になり、志村けんさんが亡くなった。

「うちで踊ろう」が投稿された4月はじめは、世間が「あれ、コロナウィルスってもしかして結構ヤバイ??」みたいな雰囲気になって、自粛に対して意識が向きはじめた、ちょうどそのときだった。

私はというと、前の記事でも書いたようにA型モードに突入しネガティブな思考に陥っていた。

ちっちゃいときから大好きだったバカ殿様こと志村けんさんが亡くなり、アルバイトも休止になり、部屋に引き込もって白い壁に囲まれ、息苦しかった。

地元の家族や友達からは、こっちに帰ってくるよう言われたけど、帰省も自粛しなければいけないムードがあって、なかなか決められずにいた。

そうこうしているうちに、緊急事態宣言が発令され県外への移動は禁止されたし、リモート帰省が推奨されて帰るタイミングも完全に逃した。

私だけじゃなくて、本当にたくさんの人が部屋にこもらざるを得なくなり、と同時に医療従事者や運送業、宅配便のお仕事をされている方は危険と隣り合わせの状態でも、家からでなければならない状況だった。家の中でも、外に出なきゃいけない人も心のうちで踊ろうという「うちで踊ろう」のコンセプトのもと、この曲はとても大きなムーブメントになった。

私は星野源さんがずっと大好きで、人生で1番好きなアーティストは安室奈美恵ちゃんと星野源さんと決まって言っている。

星野源さんの曲は、今までもつらいとき、本当に地獄だなっていう状況から救い上げてくれた。

けれど、今回の「うちで踊ろう」は私をより苦しめた。

「うちで踊ろう」は、ただ老若男女みんながノリやすくて、ダンスがコピーしやすいから流行ったのではない。「恋ブーム」とは流行り方が違った。

人間が生きるために、身体的にも精神的にも「音楽」を求めていたから流行ったのだと思った。「流行った」という言葉自体、適さない表現だなとも思う。

ここで、私は音楽の持つ力を身をもって感じた。

音楽がただの娯楽じゃなくて、人の生命に関わるくらいの影響力、パワーのあるものなんだなって、頭ではわかっていたはずなのに気づかされた。

そしたら、今までの私の音楽に対する姿勢が甘すぎることにも気づかされた。「音楽聴く資格ないな、私」って本気で思った。

そういう”すごいもの”に対してあーだこーだ言える立場じゃないし、それをゼロからつくりあげた人に、どのツラ下げてインタビューしたいとか言っちゃってるの?私って。

”すごいもの”に対して、同等の知識や考え、社会に対する思いとか。そういうのも持ち合わせた状態ではじめて面と向かって話ができるんだと思う。

ただのファンなら、こういうことも自分には関係ないと目を背けて、大学の友達とリモートのみとかしてればいいんだ。

でも、私は音楽ライターになりたかった。

だから、SNSで発信するしないは別問題としても、今社会で起こっていることについて考えなきゃならない。

それがとってもつらかった。

ライターになりたいって思ってから、ツイッターでたくさんライターさんをフォローした。

そしたら、ツイッターっていうすごく小さい世界ではあるけれど、私の見る世界は変わった。今までのタイムラインには、社会でどんなに悲惨なことが起こっても、「寝坊した」とか「課題やってない」とかそういうことばっかりが流れていた。

なのに、ライターさんをフォローしてから、朝起きてタイムラインを見ると、信じられない光景ばかりで埋め尽くされている。コロナも、人種差別も女性差別もLGBTQも戦争も、世界では当たり前に起こっていた。

そこでまず、今の社会に対して絶望した。

私だって、社会問題を考えてこなかったわけじゃない。

地元は部落差別が根強い地域だったし、中高一貫の女子校だったからレズビアンの友達もいて、私自身も女の子から告白されたこともあった。でも、別になんとも思わなかった。「生まれた地域で差別をしてはいけない」「誰が誰を好きになってもいい」。こんな当たり前のことをどうして学んでるんだろうって。なんで講演が開かれるんだろうって。寝た子を起こす必要はあるのかなって。

私は、本当に狭い視野で甘い考えで生きていた。

その自分の生き方が情けなくて絶望した。

少しして、安倍首相が「うちで踊ろう」をツイッターで取り上げた。音楽と政治に関するたくさんの意見が飛び交った。

私がフォローしている音楽ライターさんも何人も声をあげて、自分の意見を発信していた。どれもすごく言葉が強かった。でも、安倍さんを傷つけることが目的なのではなく、声を上げなければならない根拠がある「批判」だった。そして、鋭い言葉を用いることの責任もしっかりもっていた。

私は、それもできないって思った。私は「安倍さんも人間なのに」とか思ってしまったし、今まで考えてこなかった知識不足の脳で社会に対して何か意見するなんてできっこないって思った。もちろん音楽の批評も。

それで、どんどんしんどくなって、音楽が聴けなくなった。

あんなに大好きだった星野源さんも見れなくなって、友達に泣きながら電話をかけたら「明日雪が降るか世界が滅びるかどっちかだから、頼むから星野源のことは好きで居続けて」ってお願いされた......。

インターン・就活も始まって、音楽ライターになりたい、でも書けない。できないけど、やりたい。やりたいっていう感情だけで進んでいいのか。まだ確信は持てない。

けどね。今こうしてnoteに思いを綴れるまでメンタルが回復したの。

それは、音楽が聴けないことを相談した友達がふとかけてくれた一言のおかげ。

「成長は痛みを伴うし、痛むのはめきめきと伸びているからだよ」。

この一言で、どれだけ私の心が軽くなったか。

やっぱり言葉の持つ力はすごい。音楽と同等ぐらい。

だから、音楽を言語で批評するんだ。言葉・文字・ライティングは音楽と張り合える。

やっと、ちょいB型モードになりかけてそう......。

まだ、音楽を聴くことはしんどいけど、それでも聴きたい。知りたい。書きたい。私の言葉で伝えたい。

苦しくても苦しくても、聴き続けて書き続けるしかないのかもしれない。

頑張るしかないんだ。

頑張れ、自分。

そのしんどさと胸の痛みは「成長痛」なんだから。

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