わからないを一緒に楽しむ〜目の見えない白鳥さんとアートを見に行く
ようやく読み終えた。
目が見えない世界は、想像できても、同じような感覚は体験したことがない世界、どういう感覚かわからないから、ハッとさせられる言葉がたくさんあった。
目が見えない白鳥さんは、誰かと一緒に美術館に行って、その人がどんな絵かを話してくれるのを聞いて、何かを感じる。
その絵がどう見えたかをある人に聞くと、また他の人の見方はまた違っていたり、自分の見たものをことばで表現すると、いつものアートの見方とまた違う世界に足を踏み入れるよう。
まず、同じものを見ているけれど、人はそれぞれちがうように見ている。
それは、自分の過去のデータに照らし合わせたりしながら見ている。
だから、偏見や思い込みや、その人のメガネで見ていて、興味あるところや、過去の思い出とひもづけて見がちなんだな、と。
見えない白鳥さんにアートを伝えるために、自分が見たものを口に出して、ことばで表現したとき、
あれ、今までちゃんと見ていなかったかも
と、見える人が気づくシーンは
はっとさせられる。
私たちは見ているようで、たくさん情報がありすぎて見落としたり、自分がピックアップしたところだけ見ていたり、錯覚したり。
もちろん、みんなそれぞれの見方があっていいし
同じでなくてもいい
そんな見方があるのかと
むしろ見方がふえるなら
きっと世界は豊かになる
白鳥さんが、視覚障害者だから、助けなきゃって声をかけてくる人がいるけど、白鳥さんは困っていないから逆に困る、ふつうにこんにちは、って言ってくれたらいい、っていう話も印象的だった。
それはわたしも身に覚えがあるな。
両方の立場から。
他人の感覚は、自分とは全く同じではない。
目が見えない人の夢を見る感覚ってどんなのか、想像できても本当にはわからない。
わかりたいけど、わからないし、言葉でうめようとしたら、かえってどんどんはなれてしまったりもする。
わかることを元にすると、そういうものとしてみてしまうのだとしたら、
何もわからない状態で、ただ今この瞬間を、一緒に楽しみ笑いあう。
それでもいいのかもしれない。
わからなくてもいい、わからないを楽しむ。
なんでもわかる方がいいとか、わかりやすさがよしとされがちだけど、わからないことは、むしろ、あたらしい発想をうむ
まだやったことないこと、経験したことないあたらしいことに挑戦する時、全然違う世界の人に出会うとき、そういう考え方は、勇気をもらえる気がする。
アートを見るとき、どんな知識があろうとなかろうと、誰だって、好きにアートを感じて、語っていい。いろんな制約から自由になれるような気がする。
なんだか、美術館に行きたくなった。
ドキュメンタリー映画にもなっているから、見てみたい。