盆地の夜の空気-2-
私過去に住んでいた住居の横を通る。
うだつのある家屋で、築は100年程度過ぎていると思う。
今の自宅からは100メートルほど離れていて、この家屋に母方の祖父母が住んでいた。
6年ほど前、祖父が逝去して以降、空き家になっていた。
しばらくの間は飼い猫のミーコが家を守ってくれていた家でもあった。
こんな辺鄙な場所に誰が住むのか、行く先は更地にするのがオチだろうと思っていたが、今年に入り、買い手がついた。
今はその方が住むための改修中だ。
自分の家、祖父母の家が離れてしまい、もう玄関を開けることもなければ、二階に上がって日向ぼっこをすることもないのか…と思いを巡らす。
それでもこのご時世、こんな限界集落の家を買いたいと言ってくれるのだから、感謝しかない。
その先の前方には、更地の駐車場だ。
ここは昔、幼馴染のばあちゃんが駄菓子屋をしていた。
週に何度か、100円も満たないお金を握りしめ、着色料まみれのコーラやソーダのような飲み物を買ったり、チョコやガムを買っていた。
ガムを吐き出すのがもったいなくて、しょっちゅう呑み込んでいたら、友達からガムが胃に溜まってそのうち手術しないとだめなんだと何度となく説教されたのを覚えている。
ある時は、その駄菓子屋に腰を下ろしてお菓子を食べていたら、近所のモモ姉さんが、「地べたに座って食べるとパンツが黄色くなるんでよ」と、よく言われたものだった。
言われないようにモモ姉さんがいる時には地べたにいないようにした。
今思えば、モモ姉さんは少し障害がある方だったのではないかと思う。
駄菓子屋後を通り過ぎると、今は普通の家屋になっている元牛飼いの場所を通った。
私は小さい頃、父方の祖父におんぶをしてもらいながら、牛を見に行くのが大好きだった。
牛はいつも藁を咀嚼しながらハエがたかることを気にもせず、モオ~とあいさつをしてくれたものだった。
牛の匂いも糞の匂いも、臭さは特別感じず、それが牛を飼うこと、牛が生きることだと思っていた。
さらに歩いていく。
今度は右手側に茅葺の家屋が見える。
この家は私が小さい頃から佇まいが変わっていない。
そもそも人は住んでいたのだろうか?
私がよく目にしたのは、肌着に腹巻姿のおじいちゃんがよく涼んでいた姿である。
あのおじいちゃんはもう…亡くなったかな…。
街灯も、道路も住まいも、昭和時代と比べると令和になり、それなりに変化はしてきている。
小学校の頃、県か何かの視察で学校をあげて大きなイベントをしたことがあった。
小学1年生に任されたのは、「未来の私達の町」。
60名にも満たない児童がそれぞれの未来を想像して作成した作品だ。
そこには、遊園地ができたり、デパートができたり、モノレールが走っている。
人もたくさんいる。
夢と希望に満ち溢れた活気ある街が紙版画の作品として作成された。
あれから20年以上も経過し、60代後半の母親は「この地域はどうなるんだろうか。」とため息をつく。
弔問客の母と同世代の方も認知症の母を看取るまでの話―医療機関からは断られ続け、自宅介護の壮絶だった話を聞いた。
ふと我に返る。
ゴオオっと水流が耳に入る。
幼馴染の家の近くまで来た。
道幅は広くなり、街灯はついたが、下を見ると物凄い水量で川が流れている。小さい時は平気だったのに…いつの間にやら夜の川に恐怖を抱くようになっている。
そして、夜の田舎の道も都会の感覚のままであれば怖いのだ。
深呼吸をし、緑の空気、川の空気を吸って、チューニングしていく。
大丈夫、私はここの住人だ。