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書くことは自分との対話

私は、元々絵を描くことが好きで、

おもてで遊んだり、ゲームをしたりするよりは、

ひとりでお絵かきをよくしていた。

三歳になったばかりの七五三の写真に、小さい紙切れが挟んであって、

三人の人の絵が描いてあった。

きちんと目と鼻と口があって、ヒトの形をした三人の人。

三歳なりたての私が描いたらしい。

絵の上達は早かったようだ。

私は、兄と姉がいる、三人兄妹の末っ子だったため、

とにかくおとなしく、自分を表現しない子どもだった。

上がうるさすぎたためだ。

普通、末っ子は一番甘やかされて、欲しいものも、食べるものも、色々優先されると聞くが、うちは一番おとなしい末っ子が「手のかからない子」として、一番放置された。

小学生の頃は、よくクラスから一枚上手な絵を選んで、デパートの上の階で飾っている「なんとか展」とかに、しょっちゅう選ばれて出していた。

私は、自分自身の内側に溜め込んでいる「何か」を外に放とうとしていた。それを自覚せずに、絵を描いていたのだと思う。

親に絵を褒められると、逆にモヤモヤして、全然嬉しくなかったのだ。

それでも、私はただひたすら描いていた。学校のノートがほぼ落書きで埋まっていたように。


おとなしい子どもというのは、性質上おとなしいのではなく、

発言する勇気がないことが多い。

私はまさに、そんな子どもだったに違いない。


さて、そんな発言できない子どもが海外に出ました。

歳は18歳。

ただでさえ発言するのが苦手なのに、言葉が通じない国に行ってしまった。

私は完全なる孤独に陥った。

私はその頃から、絵ではなく、言葉をーすなわち日記を書き始めた。

毎日書かないから「日記」とは言わないのかも。気まぐれ日記とでも言っておこう。

自分でもびっくりするほど言葉がボロボロと出てくる。

今ならパソコンとかに書く人もいるかも知れないけど、まあ普通に手で書く日記だから、溢れる言葉に手がついて行かないことも多々あった。

書き続けていると、だんだん書き方を凝るようになったり、綺麗な日記帳を探したりもするようになった。

そんなこんなで、もう海外に出て以来22年、この気まぐれ日記を続けている。

私の日記は、「今日は〜をした」といった内容はひとつもない。

具体的に何があったとかの記述もほぼない。

そうやって抽象的に書くのが楽しいのと、

書きながらすでに、ほんの数時間前の自分と、今ペンを滑らせているこの瞬間の自分とで、対話をしているような感じだ。

そんな風に書いていると、一種の娯楽みたいに、後で読み返すこともひとつの楽しみになっていたりして、自分が書いたクセして、

私ってこんな風に思ってたのか、と

どこか自分を客観視するツールにもなっている。

だいぶ前に書いたものと、最近書いたものの内容がほぼ同じじゃん…

まだ同じループにいるのか…。

なんていうこともあったり。


大人になるにつれ、さすがに自分の意見を発言できるようにはなった。

だけれど、日記は私にとって、内なる自分と対話する大切な場所。

普段見せている、よそ行きの顔とは違うだろう。


気まぐれ日記は、私だけが読む自伝のような感じかも知れない。



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