あなたはなに屋さんですか。
アメリカにいた頃、
普段はなにをしているの?どんな活動をしているの?
なに屋さんなの?
といった質問は、ほぼされたことがなかった。
「コジコジは、大きくなってもコジコジだよ」
じゃないけど、私という人と接して、話して、人柄を見るので、
しょっぱなから職業の質問をされたことがなかった。これは日本人もアメリカ人もほぼ同じだった。
さて、フランスに越してきて、
こちらの在仏日本人から、あなたはなに屋さんなの?といった質問が絶えないことに驚いた。
ざっくり見て、職人気質の人が多いのも一つの理由かも知れないが、
「学生です」というと、
へえ、なんの勉強?学業終えたら何の仕事に就くの?と、何かの職業で説明できないと納得できない、といった人がやたら多い気がした。フランスで得体の知れない人なら、フランスに来る前はなに屋さんだったの?の質問も続きます。
なんだかマウントを取り合っている気分になり面倒になって、ある時から「なんでも屋さん」です、と答えることにした(もちろん相手はモヤモヤしてるが)。
友達が友達を紹介する時も、この人は〇〇士、〇〇師、〇〇屋といった具合に紹介する事も多く、そんなに肩書きが大事なんだ、ってちょっと嫌な気分になったものだ。
フランス人の友人が、年齢的にもよくいるアメリカ嫌いで、こう言った。
「アメリカ人は、仕事で成功することだけがなんか人生の成功者みたいで、フランスは違う。社会的にいわゆる成功者に見えなかったとしても、自分が本当に好きなことをして、例え一時的に貧しくても、人生のルーザーとは見られないのよ」
確かに、アメリカ人は「成功」という言葉が大好きだ。
それが、仕事や経済的なことを指しているのも、明らかではある。
でも、日本人という枠だけで見ると、在米と在仏日本人は、この感じから言うと、全く逆のタイプの人たちが集まっているように思えた。
もちろん、自己紹介で、個々の活動について聞いたり話したりするのは、普通ではある。
ところが、「学生」という、いわば社会的にまだ何者にもなっていない人は怪しいというのだ。学問の分野上、皆が理解出来る訳でもないので、
「それを学んで、悪いけど何になるの?」とも言われたことさえある。
だから、「何でも屋」と言い出した訳です。
確かに、10代から海外にいて、色んな国に住んできた私は、
社会に属しているようで、属してこなかったのかもしれない。
だから、社会的にお互いを“測る”職業や肩書きが、人よりどうでも良いのかもしれない。
アメリカで偶然接してきた友達たちが、たまたまそういう人が多かっただけかもしれない。
海外で暮らす以上、刹那的な人間関係は避けられないところがある。色々な人もいるし、自分も周りも流動的に動いていて、人間関係はかなり儚いと言える。
だからこそ、もっとありのままを見れる関係が築ければいいのにな、とぼんやり思うのでした。