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日本人にあるあるな「みんな」意識

7月14日の革命記念日を境に、フランスは一気にバカンスモードになります。

うちは中庭があるのですが、ご近所さんの窓を見ていると、

あ、バカンスに行ったんだな、というのが分かります。

パリで唯一、静かな時期。

私はこれが好きなんですね。

バカンス行きなよ、と言われますが、ひと気がなくガラガラのパリは、なんだか特別なんですよ。まあ最も、観光地に行ったら普段より人混みは溢れているんでしょうけど。スーパーのレジがスムーズだったり、色々と良いんですよね。


まあ、そんな話はさておき。

日本人は、集合意識というのが潜在的に強い民族かな、と感じる時が多々あります。

集合意識、というか、社会や人、時には認識や常識の面においても「ひとつの個体/ひとつの側面が全て」としてみる傾向が強いのではないかな、と思うんです。

日本人の口癖に「みんな」という言葉があると思います。

全くの無意識だろうし、実際そこまで深い意味もない。

ー「こんなことはみんなが知ってる」

ー「みんながしてること」

ー「そこに行けば、必ずこうなるよね(そこにいる人々みんながそうだと言う)」

ちょっと抽象的すぎますかね。

例えば、

「今までの栄養学が嘘だってこと、もうみんな知ってるよね」

「オランダに行ったらみんなデカくて私たち日本人は完全に埋もれるよね」

「近頃の若い子たちはみんな大きい」

とか。

日本語には、言霊ってありますね。

発した言葉にさほど深い意味を持たせるつもりも、言った本人も正直あんまり考えずに言ったことだと思うし、本当の意味の「全員」を厳密に指して言ってはいないはずなんですが、この「全員」という言葉が、言霊として、結果日本人の「何かがあったら、全員/みんな」意識に自動的に繋がっている気がするんです。

要は、他の側面や違う意見を見れなくなるのではないかな、と。

英語ではこういう場合「overgeneralize」(overgeneralization)と言われます。

Generalizeは、「一般化する」ですがそこに、過度の/〜し過ぎのoverが付くので、過度に一般化する、という意味になるんですが、日本人が海外で小論文や作文を書くと、よくこの点を注意されます。

Everyone や、all of 何々、と書いて、ペケされるんです。

「どうして(みんなだと)知ってるの?」と注意される訳です。

個人主義だなんだとかいう次元のお話ではないんですよ。断定して物事を言うのはいけないんです。いけない、というか、そんな訳ない、全員に当てはまる訳がない、ということが前提になります。

これはある意味、多様性という社会における意見の持ち方の訓練にもなります。


上に書いた会話を解説するならば、

栄養学が嘘だってこと知っている「みんな」は、その人の知っている人々の中の更に限定された数人の「みんな」であるはずです。ちなみに、私はその会話の内容は理解できました。そういう話を既に聞いていたからです。

オランダ人が全員デカいはずはないんです。私は逆に、複数のオランダ人に会いましたし、オランダにも行きましたが、埋もれなかった上に、実際会ったオランダ人はむしろ小柄でした。そういうオランダ人もいます。

時々日本に帰ると、日本人のサイズ感の変化は正直感じませんし、自分より若い平成生まれで、私より背が高かった子に会ったことはありません。

しかし、これらは、「私のみの体験」であり、それゆえ「私のみの見解」になるんですよ。

オランダ人がデカいことは、おそらく多くの日本人が持つ「イメージ」じゃないでしょうか。オランダ人はみんな背が高いから、行ったら埋もれるよ、と言われた人もいるでしょう。

最近の若い子が大きいというのも、イメージ、または、テレビが言った一方的な情報ではないでしょうか。

オランダ人にしろ、最近の若い子にしろ、大きい人が「多い」とか「増えた」のではなく、大きい人の「大きさが大きく」またそういう若い子が一部「出現した」ので、平均値を底上げしているんだと思います。実際、オランダに行けば分かりますが、そこらじゅうジャイアントな人ばかりじゃなく、背が高い人の身長が相当な高さだと言えますし、

平均値を測る成長期のティーンの世代が、食生活などからおそらく早熟になり、以前より日本人でも早く背が伸びる子が出て、しかも、その身長が今までより高い故に、若い子の平均値を底上げしたのでは、と私は予想しています。

なので、ざっくり平均や実際にその人たちを見渡すと、そんなに大袈裟に「みんな」とかいうことにならない、と思ったんですよ。


でも、日本人の多くは本当にこの「みんな」という言葉を多用していると思います。

意識してなかったものでも、やはり言霊がありますから、結果的に全員そうである、と思い込むことに繋がると思うんです。


若い子たちは、「みんながー」という表現をよく使うと思いますが、それは若いなりに生きてきた/属している社会が小さいので、自分たちの属するコミュニティにいるみんな、もっと言えば、学校のみんな、より小さく、クラスのみんな、より更に小さく、クラスで仲良いみんなレベルの規模の「みんな」だと思います。

でも、この規模は、大人になっても、さほど広がっていないと思うのです。

属する小さいコミュニティが、少し増えるだけなんだと思います。

サイズではなく、数の問題です。

結局は自分が接しているみんな、その中のよく話すみんなの規模の話だろうと思うのです。

でも、よく見かけるのは、自分の身の回りの体験や身近な人の話のはずなのに、過度に一般化している光景です。


最近日本に行った訳ではないので、実情を見てはいないけれど、ここ数ヶ月の市民同士の自粛警察なんかも、この「みんな」意識が影響していると思うんですよ。

よく日本は単一民族国家だとか聞きますが、こういう言葉を耳にすれば、それも言霊になって人々の認識に影響します。

今は頑張りどきだという事が焦点ではないので、そこを批判するつもりはないんですが、

全員が同じ思考回路、同じ行動、同じである、というワンパターンのモデルを過度に信じすぎだと思うんです。自分の目で見れば、(しつこいようですが)、若い世代の日本人はそんなに巨大化していないことは分かるはずです。

ちなみに、戦時中のことを研究している私は、昔の資料や写真を見ますが、今でも長身と言われる180cmの男性は、当時も存在していましたし、長身の美丈夫と言われはしてましたが、そういう男性がとりわけ珍しかった訳ではなかったようです。それは私自身はびっくりしました。

いつの時代も、どの民族も、大きい人もいれば小さい人もいる。普通に考えれば、当然のことでした。


物事を多面的に見るには、この「みんな」意識や言霊が邪魔をしていると思います。

だって、じゃあ仲良い友達数人の本当にみんなが同じ意見を持っていると言いきれますか。

単純な話なんですが、個々は違う、色々が混ざるということの方が当たり前だと思えないと、せっかく自分の五感で体験したものなのに、イメージと言霊で、「予め持っていた予備知識」のままの記憶になってしまう可能性もあります。

あるひとつの面の意見を否定しているのではありません。ただ、みんなという言霊から、他の側面を見るという自然な行為をしなくなっているのではないかな、と思います。

だってみんながしているから、というフレーズは現在日本ではよく聞かれているのでは、と予想しますが、あるひとつの方法しか有効ではない、という確信はどこから来るのでしょうか。

大多数とか多くの人が、という表現はこちらでも使います。でも、そうではない人たちがいることは、「当たり前」なんです。


日本語の「言霊」という表現や概念はすごく面白いし、それがポジティブに働くパターンもたくさんあると思います。日本語の持つ「音」とかも、言霊の一種ですよね。

そういう言葉の持つ力とか影響力を少し観察してみて、こういった私見を持つようになりました。

テレビや雑誌は、情報を一方的に放ってきていると思いますが、

自分の五感は違います。

自分に向かって流れてくるものよりも、自分の内から湧き起こる感情や思考にもっと敏感になると、色々見えたりするんじゃないかな、と思います。


特攻隊を研究する上で、ひとつ興味深い文がありましたので、ご紹介します。

私は、しばらくの間先輩の勇士たちの武功談や苦闘物語に悩まされた。だれもだれも同じように話し、同じ形容詞を使い同じ感想をつけた。
彼らは尊い体験を持ちながらそれをすっかり忘れているらしい。彼らの話は先入知識と、新聞雑誌の実戦談と、他人の経験をまぜて作られる。
彼らの判断や批判はまさに群盲評象の実演である。彼らは既知の真理 ー 多くはことわざである ー への到達を予想して事実を改変する。

【戦争・文学・愛 松永茂雄】より引用


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ねこの母
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