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【Podcast書く人の気まぐれラヂオ】#37 荒地派スペシャル!

こんにちは。長尾早苗です。

今回配信したPodcast #37では、「荒地派」と呼ばれる詩人たちを紹介しました。

かなり古い現代詩文庫のものが多かったので、カバーアートを見てびっくりされた方もいるかもしれませんね。(特に黒田三郎はカバー入りでした)

それでは、配信の音源を聞きながらでも大丈夫ですので、荒地派について長尾が学びなおしたことをアップしていこうと思います。


◆荒地派とは?

詩誌「荒地」について

まず、「荒地」について定義してみましょう。ブリタニカ国際大百科事典の記述にこうあります。

詩,評論雑誌。 1947年9月~48年6月。誌名は,第2次世界大戦に直接参加してきた詩人たちが,T. S.エリオットの詩『荒地』 The Waste Landの世界に敗戦後の日本を見立てて命名。鮎川信夫を中心に,三好豊一郎,黒田三郎,田村隆一,中桐雅夫,北村太郎,加島祥造,木原孝一ら 20歳代の詩人を主要同人とした。破滅からの脱出,滅びへの抗議こそ生存証明と主張し,全人間性,総体性の重みを詩に投入することに努める一方,危機意識に裏打ちされた文明批評的性格に特色を示し,戦後のおびただしい詩誌のなかでひときわ注目される存在となった。のち吉本隆明,高野喜久雄,中江俊夫らも参加し,『荒地』詩人賞を設定した。同誌は6号で廃刊されたが,廃刊後の 51年から 58年まで年刊『荒地詩集』が編まれた。

ブリタニカ国際大百科事典より

今回は特集しなかった北村太郎

北村太郎は荒地派の中でも言及される機会が多かったのですが、荒地派の中でもいろいろと詩人同士のエピソードがあり、主要な人物としてわたしが真っ先に挙げた5人には入りませんでした。一説では田村隆一の妻との不倫関係も言及されており、わたしとしてはそういった詩人をあえて取り上げたくなかった思いもあります。ドラマとしては面白いので、『荒地の恋』(原作・ねじめ正一)を見てみるのも面白いかなと思います。

◆鮎川信夫

1920年・東京で生まれる。
1942年・早稲田大学英文科を中退、東部七部隊に入隊。
1944年・春、傷病兵としてスマトラより帰還。
1947年・「荒地」(田村隆一編集)創刊。
1951年・アンソロジー『荒地詩集』51年版刊行。以後1958年版まで刊行。著書に『鮎川信夫全詩集』『鮎川信夫詩論集』『鮎川信夫著作集』10巻『厭世』などがある。

『現代詩文庫 鮎川信夫詩集』(思潮社)より

鮎川信夫もまた、戦地で戦争を体験した人でした。彼がモチーフにしているのは「父」と呼ばれる絶対的な大きな存在であり、わたしはクリスチャンではないのですがミッション系の学校に通っていたため、聖書の知識から彼が幾度となく聖書を引用していたのではないかという見解で読んでみるとすっと腑に落ちる表現が多々あります。(もちろん戦時中は『聖書』は禁書でした)
戦友とされる「M」について、そして失ってきたいのちに対して、鮎川信夫は懺悔します。「神」と書いて(こころ)と読ませる詩があります。

平易なことばではありませんが、彼を現代詩に駆り立てたものや詩作に走らせたものが「詩誌」であったり「荒地」であったりしたのでしょう。

放送では「深いふかい眠り」を朗読しています。

◆北園克衛

1902-1978。詩人。本名橋本健吉。海外ではKit. Katと知られる。三重県度会(わたらい)郡四郷(しごう)村(現伊勢市)生まれ。中央大学経済学部出身。『薔薇(バラ)・魔術・学説』『VOU(バウ)』を主宰。『DIOGENES』『TOWNS MAN』『NEW DIRECTIONS』などに作品を発表。E・パウンドと交流。日本を代表する前衛詩人として国際的にも著名。1954年(昭和29)ダイバァーズ・プレス刊行の詩集『BLACK RAIN』は、W・C・ウィリアムズから高く評価された。戦時中は郷土詩運動を主張。ラディゲ、エリュアールらの翻訳がある。詩集『白のアルバム』(1929)、『風土』(1943)、評論『黄いろい楕円(だえん)』(1953)など。

日本大百科全書(ニッポニカ)より

北園克衛が魅せられた「の」とは何なのか、ずっと考えています。最初はモダニズムのように実験的な詩作が繰り返されていきますが、そののち北園克衛が手にしたのが改行の多い「の」という助詞で結ばれた単語と単語の行間の崩壊でした。

よい詩にはいつも行間と行間の崩壊があります。そこに平易な文章はほとんどなく、わたしとしてはある種の「連想ゲーム」のようなかたちで詩を作っているのではないかと思っています。

放送では「BLUE」を朗読しています。

◆黒田三郎

1919年・広島県呉市に生まれる 東大経済学部卒業
1946年・夏、ジャワより帰り、1947年「荒地」創刊とともにこれに参加 「荒地詩集」に1951年以来、主要作品を発表。詩集に、「ひとりの女に」「失われた墓碑銘」「渇いた心」「小さなユリと」「もっと高く」があり、評論集に、「内部と外部の世界」「現代詩入門」がある。

『現代詩文庫 黒田三郎詩集』(思潮社)より

荒地派の詩人たちの中でも、特に気になっていたのが黒田三郎です。
彼は戦地に赴き、そこで敗戦後に帰ってきました。
彼が戦中・そして敗戦を知らされて作ったと思われる「お金がなくて」は非常にこちらにも考えさせられることが多く、またそのあとに出された奥様と思われる女性へ書いた詩集『ひとりの女に』、娘さんとの日々を描いた『小さなユリと』は有名かもしれません。

お父さんをやって、サラリーマンとして生活し、それでも詩を書く。
あんまり今と変わらないかもしれないけれど、それでも黒田三郎が自分たちで築き上げた「家族」というものから詩想を得たり、何らかのかたちで彼が「家族」に救われていたのも事実かと思います。
ひとを人間として見たい。そう思う黒田三郎の詩は、とてもやさしくてどうしようもない「オトーチャマ」の詩でもあります。

今回はわたしが最も美しいと思う恋愛詩「僕はまるでちがって」を朗読しています。

◆田村隆一

1923年・東京に生れる
1943年・明治大学文学科卒業、横須賀第二海兵団入団
戦後、「荒地」に参加。詩集に『四千の日と夜』『言葉のない世界』『田村隆一詩集』『緑の思想』『新年の手紙』『死語』があり、対談集に『青い廃墟』『泉を求めて』があり、評論集に『詩と批評』A~D『ぼくの遊覧船』『詩人のノート』他があり、翻訳も多数ある。

『現代詩文庫 田村隆一詩集』(思潮社)より

詩誌「荒地」の責任編集者だった田村隆一。彼が集めた詩人たちはみな、何かしらのかたちで戦争について思いを持っていたようです。そして田村隆一が呼びかけたのが全員20代という若さ。若さゆえに血の気が多いというか、みんなが主張したいことが(特に田村隆一は)「圧」をもって詩から伝わってきます。

田村隆一の詩の特徴でもあることば「われわれ」ですが、あまり使うひとが少ないようにも思うし、この時代だからこそこのことばを使うことができたのではと思います。現実を内的な世界からひっかき、爪痕を残していく。それは、荒地派の同人みなが抱えていた「明日」「未来」へ対する思いだったのかもしれません。

今回放送では「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」で有名な「帰途」を朗読しています。

◆西脇順三郎

1894年生まれ。新潟県北魚沼群小千谷町(現小千谷市)出身。
慶応義塾大学で学び、教え、オックスフォード大学で学ぶ。
主な詩集に『Ambarvalia』『旅人かへらず』『近代の寓話』『第三の神話』『失われた時』『えてるにたす』などがある。

『現代詩文庫 西脇順三郎詩集』思潮社より一部抜粋。

文学の用語の中に、「インターテクスト」というものがあります。
ざっくり言ってしまえば「下敷き」とでも呼べるでしょうか。詩を書くということは至高の芸術であると西脇順三郎の詩を読んで思いました。
何冊もの本を読み、そして詩人そのものが生活していくこと。机の前に張り付いていても詩は書けます。しかし、膨大な知識は書物だけではどうしようにもなくて、西脇順三郎はインターテクストを自分の詩に取り入れる際、どのようなことを気をつけていたのだろうと考えています。

詩が芸術へと昇華するとき、その短さゆえに詩人はある種の混乱を自身のうちに招きます。その脳髄とのたたかいがあればあるからこそ、わたしたちは「書く」ということに至上のよろこびを見出していく。そんな気がしてなりません。

放送では「天気」という詩を朗読しています。

◆終わりに

久しぶりに、大学のレポートのようなものを作ってみました。

わたしの独学で学ぶことも大切な記録のため、読んでもらうという形でわたしの勉強のモチベーションになるかなと思います。

今まで取り上げてきた詩人たちは、今をときめく詩人たちでした。

しかし今回昭和初期を振り返ってみると、ことばの使い方が全然違うんです。今は今でいいところはあるけれど、昭和初期の語り伝えたい詩人を今回集めました。

次回は海外詩を特集していきます。お楽しみに。

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長尾早苗
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