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60円に宿る自由と美学

今日、不思議なことがあった。
郵便局に行った帰り、今年のしたいことリストを100個まとめたものを印刷しようとコンビニに寄った。
白黒でもよかったけど、60円払ってカラーで印刷しようと思った。
財布を開いてコピー機に10円玉と50円玉を入れる。
投入金額はなぜか120円になっていた。
前に使った人がお釣りをとるのを忘れたのかもしれない。
そのまま印刷をしてお釣りボタンを押したら、さっき私が入れた10円玉と50円玉が返ってきた。

一瞬、ラッキー!と思った。
でも次の瞬間、なんとも不思議な感覚が私を襲ってきた。
それは、前の人が忘れたお釣りをねこばばしようとする自分に対する罪悪感ではなかった。
まるで目に見えない「何か」に、私の判断を試されているような、そんな感覚だった。
コンビニにはまあまあ人がいたけれど、その視線はその人たちのものではない。
言葉にすると変な言い方になるが、私は試されてると感じた。

そのあとすぐ、何も考えずに財布に入れようとしていた小銭を握って、混んでいるレジに並び、バイトのお姉さんに「取り忘れみたいです」と言って10円玉と50円玉を渡した。

お釣りを取り忘れた人は、この60円を取りにこないだろう。
お釣りを取り忘れたことに気づいたとしても、60円くらいいいやと思うはずだ。
私だったらきっとそう思う。
忙しい現代人にとってコンビニに置き忘れた小銭の価値はそこまで高くない。
つまり、私はこのおっちょこちょいな人のためにねこばばをやめたわけではない。

では、あの瞬間、私が試されてると思った感覚は一体なんだったのだろう。コンビニから出て、家に向かいながらぐるぐる考えた。
考えながらも私は気分が良かった。
60円の忘れ物を届けたくらいじゃ誰からも感謝されない。
電車で席を譲った時のような、良いことをしたという満足感ともまた違っていた。
それは、深夜の人通りのない道で信号が赤から青に変わるのを律儀に待つ時と同じような気持ちだった。

自分の品性、倫理観、人間性、それらを試されているように感じた。
人の目がない時、それは純粋性を持って発揮されるのかもしれない。
人に見られている時は、どうしても不純物が混ざる気がする。

今日の私は自分の美学を貫けたのだ。
小さい頃の私に恥ずかしくない大人になるという美学を。
だから心地が良かったのだろう。

褒められるために、素敵な人だと思われるために、好かれるためにしたわけではない純粋な行為。
常に人の目があるこの社会の片隅で、少しだけ自由に、そして美しくなれた瞬間だった。



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