催眠と心理学 歴史編その2
こんにちは、猫ねっこです。
今回は前回の続きです。
今回は主に海外での捉えられ方に視点を置きます。
リエボー氏によるナンシー派の影響はかの有名なフロイト氏やユング氏(カール・グスタフ・ユング氏)にも感じられますが狭義の“催眠”を活用する事はあまり無かった様です。大元の、主にトランス状態を使ったメスメリズム(大催眠)に就いては奇を衒った印象の他あまり良い物とはされなかったようで、そのような介入は薄れていったように感じます。
東洋思想に焦点を当てた論文を幾つも書かれたユング氏は当時神智学(theosophy)と呼ばれた思想への興味こそあれど、当時新しい学問であった心理学の価値観とは大きな区別をつけていらしたようで、宗教的精神状態への寄り添った理解が弱い様に感じます。その分赤の書に代表される幻想的なグノーシス調(二元論的)の解釈が多い様に思います。
彼が研究したという易経や、チベット死者の書に於いても当時の文化的背景を踏まえて正しく読んでこそです。彼の様にミクロ的に、一字一句その意義を西洋に於ける秘教的(esoteric)概念を引き合いに出して分析してもそれは何か平等さに欠けている様に私は思います。基督教と比較や、その反動による東洋文化への傾倒は少し歪さを伴います。
尤も、西洋の視点からその馴染みのない東洋思想へ詳細な解釈を付した事は大変に凄いことなのですが。
チベットの聖典には、第二次大戦に於いてその文化を枢軸国(主にナチスドイツ)と連合国双方にチベット人ら自らが生き延びる手段としてもたらしたという背景があります。
西洋に於いてはヒッピー文化へと繋がりましたが、その後に登場した幻覚剤などでの高揚は大変に恐ろしいものです。少しでも瞑想に通じた人であれば幻覚剤など全く要りませんね。
また戦後社会において催眠といえばミルトン・エリクソン氏による理論が有名でしょう。大催眠とは大きく異なるその理論は催眠というよりも暗示の印象が強いように感じます。自分自身とそのコミュニケーションの全て(話の流れやその印象、背景等)を使って相手と向き合うその手法は易筮に近い印象を私は受けます。しかし催眠の原則たる、被術者※の精神状態や感覚に重きを置いたその世界観は全て受け継がれている様です。
※心理学の分野ではクライエントと呼ぶのでしょうか。
ここで少し心理学とは別の観点から述べます。19世紀中頃から20世紀初頭にかけて見世物としての催眠が世界各地で特に活発に行われ、催眠術として複数の人間を同時に催眠へ落とし込む技法が幾つも考えられた様です。技法は五万とあれどその目的は一つ、所謂大催眠の状態です。その状態に対して特に我が国では心身修養術的活用がなされました(これは明治以降の政府の取った西洋化政策の影響を大きく受けています)。
特に、現代に於ける明るい意識下で行う見世物的催眠とはその趣を異にします。
大催眠に就いてはその有用性はあるものの、その精神状態は狂信に近く、またトランスの制御が難しいという面からでしょうか、学術の分野では旧来憚られる事が専らであるようです。
しかし、大催眠(トランス状態を伴うもの)と小催眠(暗示など)はその双方共にそれらを惹起する心的原理は同じものです。その顕れ方こそ被術者(受け手)の精神状態如何であるのです(催眠の種類については稿を改めます)。
時代の遷移、即ち科学や理論を大切にする社会への移行に伴って催眠はその宗教性を削がれ、それの持つ重大さが削がれ、何かを誰かを信仰することで起こる大変大きな心的変化と主観的感覚への理解そのものが薄れていく様に感じます。
この他催眠を歴史的に見来れば、戦前や戦時下の日本に於ける催眠状態へのその特徴的な解釈、并(ならび)に軍事利用(主に二次大戦や朝鮮戦争)などの側面がありますがそれはまたの機会に致します。
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