2022年10月公開新作映画感想まとめ
君を愛したひとりの僕へ
事故により精神と肉体が分離してしまった恋人の佐藤栞を救うために奮闘する科学者・日高暦の奮闘を描くアニメ作品。同時上映の『僕が愛したすべての君へ』とは並行世界の関係性になり、相互に補完しあう内容となっている。今回は『君愛』→『僕愛』の順で鑑賞した視点で感想を述べる。
一見、青春恋愛アニメの風格のある作品だが、実際にはパラレルワールドとタイムリープとを組み合わせたSF的なギミックの面白さを押し出した「世にも奇妙な」系の趣のある映画となっている。子供時代に並行世界移動中の事故で精神だけが肉体から離れて、この世に定着してしまったヒロインの栞を、主人公の暦がいかに救うかというのが本作の物語を推進する大きな縦軸。しかし、この栞の人物造形がかなりステレオタイプなアニメヒロイン的なものであり、また、物語自体が暦の幼少期から晩年までをダイジェスト的に進めていく構成となっているため、心情描写はかなり淡白なものとなっている。一方で、最終的に暦が究明する事態の解決法は、細かい部分はさておき、途中で敷いていた伏線を上手く回収する面白いものとなっているので、SF的にはなかなか楽しめるものとなっている。さらに、これを受けて、本作はちょっとギョッとするようなEDへの入り方を見せるのだが、これが00年代のセカイ系作品を彷彿とさせる味わい深いものとなっているので必見である。
基本的にはSF的な小品として楽しめる作品だが、キャラクターデザインが若干古臭かったり、アニメーションの動きが所々カクカクしていたり、本職声優と俳優の演技トーンの違いが露骨に出ている場面があったりと不満点も多々あり、こういったノイズが物語への没入感を削いでいたので少し残念だった。この作品単体でも楽しめるように、『僕愛』サイドのストーリーをかなり丁寧にダイジェストで見せてくれるため、これ一作でも十分楽しめるように配慮されているのだが、一方で、二作観るつもりの人からすると、もう少し絞ってくれてもよいようにも思われた。
僕が愛したすべての君へ
高崎暦と瀧川和音の2人のカップルの出会いから晩年までを、並行世界といったSF的な世界観を交えながら描くアニメ作品。同時上映の『君を愛したひとりの僕へ』とは並行世界の関係性になり、相互に補完しあう内容となっている。今回は『君愛』→『僕愛』の順で鑑賞した視点で感想を述べる。
事故によって精神体になってしまったヒロインを救うという明確な縦軸があった『君愛』に対して、本作『僕愛』はこの『君愛』の裏でもう一つの並行世界では何があったのかを補完する作品となっており、明確な縦軸のドラマは設定されていない。ただ、その分、本作は『君愛』よりも主人公である高崎暦と瀧川和音の人生をじっくりと少年少女時代から晩年まで描写することが出来ており、映画的な味わいは本作の方が深い。特に本作のヒロインである瀧川和音の人間臭い魅力的な性格描写は本作の一番の見所だ。癖のある我の強かった少女が、子を思う母親となり、酸いも甘いも噛み分けた老人になっていく、この変遷が丹念に描かれており、これらの描写が人生讃歌とも言うべき本作独自の雰囲気を作り出している。また、この和音を演じる橋本愛が、少女期と成人期の声を非常に繊細に演じ分けており、この演技がさらに本作に深みを与えている。
『君愛』が、パラレルワールドとタイムリープを組み合わせて、いかにヒロインを救うかというSF的な大ネタに力を入れていたのに対し、本作『僕愛』は並行世界間の境界が希薄なために各人の自己同一性が曖昧となっているという本作独自の設定を下敷きにした思考実験のような作品となっている。そのため、ドラマ的には『君愛』と比較して、本作はかなり地味なものとなっているのだが、このような特異な世界観において、どのように人を愛せばよいのかという問いに対して、主人公が到達する答えが、かなり膝を打つものとなっているため、SF的な感動は実は本作の方が大きい。
全体的に『君愛』よりも本作『僕愛』の方が映画的な面白さは勝っているように思われる。ただ、二作全体での大きな物語の主導権を握っているのは確実に『君愛』の方で、『僕愛』単体だと終盤で『君愛』要素が突然放り込まれるような構成となっているため、『君愛』の面白さは『僕愛』ありきのものと言える。そういった意味で、個人的には鑑賞順序は『君愛』→僕愛』を強く勧めたいところだ。
最後に余談だが、本作では明示されないものの、暦と和音が進学する大学は確実に九州大学理学部だと思われる。短いシーンながら、理学部のある伊都キャンパスの坂の多い地形や、理学部棟の建物内部のレイアウトが、かなり本物に近く再現されていたので、卒業生としてはかなり感動モノであった。
スペンサー ダイアナの決意
1991年、エリザベス女王の私邸にイギリス王室が集ったクリスマスを舞台に、ダイアナ妃の苦悩を描く作品。本作はストレスの映像化とも言える作品に仕上がっている。イギリス王室のありとあらゆるしきたりやスキャンダル、パパラッチに疲弊しきったダイアナ妃を演じる主演のクリステン・スチュワートの演技は、壮絶と形容すべき凄まじさである。その演技は立ち姿一つをとってもひと目で明らかに体調がおかしいと分かる痛々しさであり、摂食障害で衰弱しきった状態と捌け口のないストレスで今にも爆発しそうな状態をグラグラと行ったり来たりする不安定なダイアナを熱演している。本作では、音楽とカメラが彼女のこの演技を的確にサポートしており、作品への没入感を飛躍的に高めている。これらが合わさることで、観客はサンドリンガム・ハウスの窒息しそうな空気と、そこから飛び出した後の晴れ渡る空のような清々しさを実に深く追体験することができる。
本作の美点は分かりやすく嫌な登場人物を置いたり、ショッキングな事件を描写したりしていない点である。本作では何人かの使用人がネームドキャラとして登場するが、その誰もが粛々と自身に課せられた仕事をこなす人物として描かれており、王室のルールにガチガチに縛られてはいても、ダイアナに対して悪意を持つキャラクターとして描かれていない。また、本作はダイアナがすでに様々なトラブルで摩耗しきったところからスタートするため、一部を除いて、彼女の人生における大きなトラブルは台詞でフォローされる程度となっている。その代わりにダイアナを苦しめるのは、王室の異様で形式張った様々なルールやしきたりである。食事ごとに決められた衣装を着るよう強要され、食事の時間になると執拗に部屋に使用人が呼び出しに来る。そういったシーンが何度も何度も繰り返され、王室での息の詰まる生活が丹念に描写される。こういった表立ったシーン以外にも、冒頭の軍が宮廷に恭しく食材を始まるシーンしかり、劇中何度も挿入されるキッチンでの料理人たちの厳格なミーティングのシーンしかり、とにかく人々がルールに縛られているシーンが劇中に散りばめられており、ダイアナの感じるイギリス王室での張り詰めたような息苦しさが実に丁寧に演出されている。
本作では殊更悪く描かれる人物はいないと述べたが、実際には劇中で一人だけ明らかに行動に問題があり、そして、明らかに嫌な奴として描かれている人物がいる。ここに制作陣の強い意思とイギリス国民が広く持っているであろうその人物への明確な悪印象が感じ取れるのだが、まさか、この映画の本国での公開から程なくして、その人物がイギリス国王に即位してしまうとは皮肉なものである。
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