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♯14 幸せって?
幸せの源泉となるものが、外にある人 他人から見てどうかという視点で考えている人。人がうらやむ生活、うらやむ物、ステータス 最初の動機としてはいいかもしれない。それはずっと使用できる燃料ではない。
他人も世間も日々刻々かわっていく。それに合わせて次から次とお金と心をを消費しながら、走らないといけいない。
コップの底に小さい穴があいていて、常に水がこぼれている。すぐには無くならないけど、水を足し続けないと乾いてしまう。
他人に幸せを預けているのだから、仕方がない。自分ではどうしようもないのだ。満足することもない。
幸せの源泉となるものが、内にある人 自分から見てどうかという視点で考えている人。自己を中心として考え、他人がどうかではなく、自分はどうかか判断基準となっている人。他人の誘導に踊らされない。
物の所有もステータスも必要と思えば、所有するが、その際の自分の基準があり、それに合わせている。変化はするが、ぶれない軸がある。
私の場合は、物を多く持てば、それだけ執着が強くなる。もっとほしいと欲望が強かった20代。
身に着けるものや所有するものを厳選して、これだけはやめられないというもの考え、減らした結果。物への執着が減って、身も心も軽くなったように思う。
ここまで書いて、今回の本題というか、私が介護職員をしていた時の話
施設に入っている高齢者。全介助の意思の疎通が難しい人は、幸せなのか?
結論:その方が穏やかな表情をされていたら、幸せなのではない。
本人が「私は幸せですよ!」。言ってくれたら、わかりやすいが、そうはいかない。
ただ究極の幸せな状態とは、苦しくなく、ただ穏やかに過ごせている状態。
数値化はできないですが、表情が穏やかだったら、そんな雰囲気だったら、いいんじゃないかと思っています。
赤ちゃんと一緒でお世話をしてもらえないと、簡単に途絶えてしまう命。
赤ちゃんほど雄弁には語りかけてはくれない。おぎゃ!おぎゃ!とは
ただ眉間にしわを寄せているだけ。
昔の私(介護職)は、こうはなりたくないなと思っていた。
私達基準で、幸せの基準を考えたら、高齢者の方には、ハードルが高いだろそもそも幸せの基準は、高く設定するものなのかという話。
幸せだなと思える基準を下げて、楽になること。
私の中では、縁側で、孫たちが遊んでいるのを、ニコニコと見てるおじいちゃん的なやつです。 最近は縁側はないかもしれませんが(笑)
何かのアクションもいらないし、ただただ見ているだけで、幸福感に包まれるのであれば、ただただそこに存在しているだけで十分的な話になる。
そうなってくるとお金を稼ぐ意味が薄れてくる。生活に必要な最低限度の額があればいいのではないかと思えてくる。
仏教から言葉を借りると
一般的に「苦楽(くらく)」という言葉は、苦しみと楽しみ、という意味ですが、仏教でいう苦楽とは「くがく」と言い、“苦しむことを楽しむ”という意味になります。今生には時間が存在し、常ということはないと説きますゆえに、冬はやがて春となるように、「苦しみはやがて楽しみとなる」と信じ、「楽しみになることを楽しみにすると苦しみも悪くない」という気持ちになれます。
なんの為に苦しい時間を過ごすのか?それは楽しみを知る為。
物を大量消費をして、幸せを感じる時代は終わっている。
物が溢れる時代に生きる私だからこそ、しっかりと取捨選択をしないといけない。
幸せも多様化しているし、歩む道も人それぞれだが、最終ゴールは「死」を迎える事。一歩手前の人たちと長く一緒に過ごしているといろいろと考えさせられる。
幸せと感じる基準をさげると、苦しいことの多い、この世の中で、楽しく幸せに生きていけるのではないかというお話でした。
物の見方次第で、苦になり、楽にもなる。苦と楽は表裏一体 楽だけを追い求められるものでもないというお話でした。
一日一感謝 ありがとうございました。
子供が早く大人になりたいと言える。そんな社会にしたい。
できれば福祉職が、選ばれる仕事の片隅にあれば、うれしいなと思っています。