くらしの中の定言命法

永井均さんの哲学塾・山括弧塾の授業が終わった後、顔馴染みの塾生の男の子と話をしながら帰っていた。
途中、信号があり、赤で、車は全然通らなかった。
私が渡ろうとすると、塾生の子は、
「もう少しで青になるので待ちましょう」
と言った。
「定言命法だね!」
と、私は言った。

定言命法とは、カント哲学で、「◯◯ならば」という条件なしに「〜〜すべし」という命令である。それが無条件に善ということだ。何が命令してくるかというと、「理性」がである。
対して、仮言命法は、「◯◯ならば〜〜すべし」という条件つきの命令だ。
私は基本的に、仮言命法・「車が通ってて危険ならば、赤信号では止まるべし」
に則って暮らしている。もちろんよくないんだけど、深夜出歩いたりすることが多く、このルールに慣れきってしまっている。
彼は、定言命法・「赤信号では止まるべし」に従っている。赤信号に、無条件に「渡ってはいけない」がすでに含まれていて、その命法に従っているというわけだ。
どちらがカント的であるかというコンテストだったら、彼に賞杯があげられるだろう。
カント的には、「義務」には無条件に従わなければいけない。
ただ、功利主義的には、全体的な「快」の最大化を目指す立場ゆえ、車が通らず事故の可能性が少ない+我々から「信号を守って待つ」という労力が無くなる分、私のほうが勝つかもしれない。
ちなみに、車が全然通らなくても、小さい子供が近くにいる場合は待つ。自分が道徳的でなくとも、小さい子供にはなんとなく、「道徳」というものを信じていてほしいのだ。

「ヘーゲル的な考え方だとどうなるのかな?」
と、彼は話を膨らませた。ヘーゲルは、
「本気で自分を善だと思い込んだ一番の悪がある。『善意の悪』が最も悪いことをする」
と、カントの道徳観を批判したと、その日、永井先生が話していたばかりだった。
「うーん…、『信号を守らない奴は全員殺す』みたいな人を危険視して批判するんじゃないかな」
と言った。
実際、世の中で起きてる炎上って、この手のものが多い気がする。
実際はみんな功利主義的に生きているのに、誰かを批判するときにだけカント主義的になるというか。
そんな感じしませんか?しないですかね?そうですか…。

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