クィア(LGBTQ+)当事者を推しに持ち、BLというコンテンツを愛してきたオタクがクィアベイティングと諸々を考えて言語化してみる記事(二次創作編)
この記事は
どうも。私はいわゆる面倒臭いオタク。
思春期に男性アイドルオタクになって以来、2次元3次元国内海外問わず、色んなジャンルを渡り歩いてきた。
そして、新しいジャンルに足を踏み入れるたびに、新たな価値観を得てきた。
そして、ここ数ヶ月、色々考えていることがごちゃごちゃしてきたから、自分のためにも、似たようなモヤモヤを抱えている人のためにも言語化に挑んでみようと思う。
渡り歩いてきたジャンルと私
別に知る必要はないとは思うけど、気になる人も出てくると思うので軽く自己紹介をオタク遍歴と共に。
私は、猫黒歴史21歳女子大生。シス女性。
パンセクシャル。自覚したのは中3頃。
腐女子と名乗ってた時期もあるけど、今は関係性のオタクとかshipperとか名乗ることが多い。
そこら辺のことはここでも語ってる。
オタク遍歴として大まかなものは
小学校高学年〜二十歳:男性アイドル
中学〜今:BL・ゲーム実況者
高校:YouTuber・女性アイドル
高校〜今:百合
大学〜今:映画(洋画・洋ドラ)・Vtuber
私とBLのこれまでの接し方
私は、BLが好きだ。
私が見たBLの歴史
BLと聞くと今は何が1番に思い出されるんだろうか。人によってそれぞれだと思う。それくらいには、BLは広く認知されるようになったし、色んな形で表現されるようになった。
私がBLを好きになった当初も、割と幅広い形で表現されてはいたけど、まだまだオタクカルチャーの中に居たし、一次創作・二次創作問わずエロ・グロ表現を含まずとも"BL"とだけでゾーニングされるべきだという風潮があった気がする。今もその考えを持つ人は、少なからずいる。
私と同世代、私より上の世代の人に「何からBLに触れ始めましたか?」と聞くと大抵は「好きな少年漫画のアンソロジーコミックかと思ったらBLだった」とかになると思う。それくらい少年漫画とBLは近いところにあった(ある)し、少年漫画が好きな女オタク=腐女子だと言われることもあった。
私のBL遍歴
先ほどの私のオタク遍歴を見てもらうと分かる通り、私は少年漫画や乙女ゲームなどのジャンルを通ってきていない。
通ってきていないというより、"ガチガチにはハマらなかった"が正しい。ジャンプ本誌を毎週買った時期とかもあるが、先に述べた他のジャンルに比べると熱は高くなかった。それでも、友人や家族の影響で、履修はしたし、その手の二次創作とかにも触れてきてはいる。
でも、BLに初めて触れたのはそれらじゃなくて、男性アイドル界隈からだ。いわゆる"ナマモノ"という、実在人物を一次とした二次創作をきっかけにBLに触れ始めた。
ということもあり、これまで私は「みんながイメージする腐女子とは少し違う」と思っていた(もちろん"BL"というジャンル自体を"腐"と称するのが好ましくないと思っていることも関係している)。今思うと、だから何なんだとも思う。
クィアリーディング
そうして初めてBLと邂逅して以来、割とどのジャンルでもクィアリーディングをしてきた。
クィアリーディングという言葉は、本来、フィクション作品に対して使う言葉だとは思うが、"腐った目線で推しを見てきた"と表現したくないので、私はフィクション・ナマモノ・半ナマ問わず使う。
それは多分、私が関係性オタクであると同時に考察オタクでもあることも少し関係していて、"妄想としての"二次創作というよりは"考察の結果発表"として二次創作を楽しんでいたということがある。
つまり、私が好きだった男性アイドルやYouTuberたちは、我々が見えないところで"本当に恋愛感情を抱いている"と思っていた時期があった。
だから、二次創作でもパロディものは、あまり、のめり込めなかったし、二次創作の作中に「◯月◯日に2人は逢瀬を楽しんでいた」と書かれていた日が、本人たちのエピソードトークや週刊誌の情報等で、実際には会っていなかったことが分かるとめちゃくちゃ萎えていた。
今思えば、シンプルに思考がガキンチョ。
私とBLの最近の接し方
推しに色々あったり、単純に私が成長したりしたこともあって、そんな考えは薄まり、関係性オタクになった。
関係性オタクとして
「関係性オタクって推してるものをどう楽しむんや?」という問いに、私のコンテンツの楽しみ方を一例に言語化してみると「(フィクション・ナマモノ・半ナマ問わず)本人たちが互いに抱く感情が、友情なのか仕事仲間としての絆なのか恋愛感情なのか嫌悪なのかその他なのか何なのか、ただのオタクの私らには知る由もないが、そこにあるものが何であれ、私はそれを美しく尊い(てぇてぇ)ものだとして、ただただ拝むだけ」というものになる。
ただただ拝むだけとか言ってるけど、それはそれとして、BL・百合二次創作を楽しんだりもする。が、完全にフィクションとして楽しんでいる。つまり、"妄想としての"二次創作。ここら辺が成長したと思っている。
矢印考察
そこで、少しモヤっとするのが面倒臭いオタクの私である。
先ほど紹介した、私の昔のnoteで私はこう書いてる。
ここで言う"矢印考察"というのは、人物相関図を作る時などに、キャラクターからキャラクターにどう矢印が飛ぶのか、その矢印にどういう説明がなされるのかを考察することである。
また、BLに限らず、恋愛を扱う二次創作などでは、AとBの恋愛関係をメインに扱いつつも、CのBに対する片思いを扱う場合に「A×B←C」と表現することがある。"矢印考察"の"矢印"には、こういった矢印も含まれるとみられる。
ググってみたら、あまりメジャーな言葉ではなかったらしいので、解説してみた。私しかこの意味で使ってない言葉だったらどうしよう。
このnoteで語っている"私の推し"はフィクション作品のキャラクターだ。実写作品なので、実在する俳優が演じているという点では、半ナマに分類される場合もあるが今回はフィクションと分類する。
フィクション作品内のキャラクターに対しての、クィアリーディングは、矢印考察の範疇に収まるだろう。
では、ナマモノ・半ナマの場合はどうなるんだろうか。
これに今、非常に悩んでいる。
もちろん、本人や関係者に見えない所で活動するという、二次創作を楽しむオタクとしての大前提は厳守した上での話だ。
アイドルやYouTuberやゲーム実況者やVtuberなど(特に日本国内)の活動者は、ブランディングの方向性によって多少変わりはするが、あまり恋愛関係を公にはしない。
すると、フィクションキャラクターのように「私の推しだって初登場活動開始から10年近く経って初めて言い出しました。今後、あなたの推しが自分のセクシャリティに気付く(公言する)こともあるのでは?」ということは起こりうる。
ってか起こった。
フィクションとしてのBL・百合とクイアベイティング
先ほど、私のコンテンツの楽しみ方としてこう説明した。
「完全にフィクションとして」と言っている。
自分で言っててめちゃくちゃモヤモヤしている。
クィアベイティング
皆さんは、ベイティングと言う言葉をご存知だろうか。
このnoteのタイトルにもあるし、最近話題にもなったし、多分、この言葉を知っているから、このnoteを読んでくれているんだと思う。
↓ピンときてない人向けの記事↓
クィアベイティングだとして、何かが批判される時、大抵は、「当事者が現実世界に居る」ということを蔑ろにされている時だと私は思っている。
これは、ナマモノ・半ナマ・フィクション問わず、当てはまると思っている。
「当事者が現実世界に居る」ということを蔑ろにされているとはどのような状態なのか。
例として、私が、"クィアベイティング"という言葉を使って、何かしらを批判した時の文章を見て欲しい。
色んな人の色んな意見があるとは思うが、少なくとも私は、上にあげた状況に出会った時に、上にあげたように批判をする。
クィアベイティングとフィクションとナマモノと半ナマ
話を戻します。
「完全にフィクションとして」BL・百合二次創作を楽しむ私自身に、私はモヤモヤしている。
シス女性としてシス女性に恋愛感情を抱くことのある私が、その状況を他者から"フィクション"とされたら普通に腹が立つ。私は、現実に生きてるし、その恋愛感情も実際に抱いているから。
私自身がされたら腹が立つ行為を、私は、推しに押し付けているのではないか。と思うと、モヤモヤする。
特に、ナマモノや半ナマの推したちに対して。
本人が、異性のパートナーがいるだとか「私は異性愛者です。同性が恋愛対象に入ることはありません」と明言してくれていたら、それらの二次創作はフィクションで、妄想でしかない。
案外、そういうことは少ない。
先述したように、恋愛関係のことを公にしないことが多いし、恋愛について言及したとしても「"今は"異性しか恋愛対象に入りませんが、"いつか"素敵な同性に恋に落ちるかもしれませんね」みたいなことを言う活動者は多い。
それは、"ガチ恋勢"のファン(性別問わず)を傷つけないために言っているかもしれないし、ポリコレに配慮した結果なのかもしれないし、本当に本心として言っているのかもしれないし、もっと他に意図があるのかもしれない。
ただのオタクからは、そのどれかなんて分かるわけがないので、これ自体をクィアベイティングだと批判することはできないと私は思っている。
私は、「人間は変わる生き物なので、究極を言えば、全人類セクシャルフルイッド」だと思っている。
となると、ナマモノ・半ナマの彼らが同性に恋愛感情を抱く二次創作を、完全にフィクションとして、"妄想としての"二次創作としてしまうのは、同性愛自体をフィクションとしてしまうような気がしてしまってモヤモヤするのだ。
クィアの推しを持つオタクとして
さらに話を戻そう。
特定され、本人に迷惑がかかってしまう可能性があるので詳細は控えるが、今の私には、クィアの推しが複数人いる。
ここでの"クィア"は、同性が恋愛対象に入る人をはじめとする、性的少数者全般を指す。
また私自身の話になってしまうが、
同性が恋愛対象に入る私が、私と同性の友人などのエピソードを、セラピストでもない第三者に"相談ではなく"ただただ話した時に、「それってもしかして恋愛感情なんじゃない?」と言われたり、直接言われることはなかったとしても、そう言う妄想をされていたり考察をされていたとしたら、いい気はしない。そう言う目線で見られるのが、好きな人たちもいるかもしれないが、大多数は、私と同じだと思う。
もし、私が、異性しか恋愛対象に入らない人間であれば、そういうことがあっても、”あり得ないこと”や"ネタ"として片付けることも可能だっただろう。(それはそれとして、クィアベイティングに近くなるが)
クィアの推したちに、私がやっているのは、そういうことなのではないか。セクハラやSOGIハラに当たるものではないか。本人の目が届かない所でやっているから、どうにか許されている気がしているだけなんじゃないか(それはそう)。
そう思うと、今まで通りの推し方ができなくなってきた。
でも、その「”今まで通りの推し活”ができなくなってしまった」ということは、「推しをクィアリーディングしてきた」とか言っておきながら、推しを「異性しか恋愛対象に入らない人間だと思っていた」もしくは「恋愛感情を抱かない人だと思っていた」ことになる。ってことは、本人のセクシャリティを蔑ろにしていたことになる。じゃあ、「私の推しに対する解像度を上げて、本人が自認するセクシャリティに即した二次創作の楽しみ方をしたらいいんじゃないか」という気もしてくるが、それは、さっき話した、私がされていい気がしないことに当たる気がしてくる。
みたいなことをグルグルと考えては、よう分からんスパイラルに陥っているのがここ最近の私だ。
1番早い解決は、"関係性のオタク"を辞めることだろう。しかし、関係性のオタクとして離れた所から推し始めたとしても、大抵の活動者は他者と関わって生きていく。そこについつい矢印を考察してしまう。やめたい。やめれるならとっくにやめてる。
ここで、こういう意見があると思う「本人に見えない所でやってるなら、別に問題なくない?」
そう、別に問題はない。
問題はないけど、私がただただモヤモヤしている。ただそれだけ。
だから、私は、冒頭で述べたように、面倒臭いオタクなのだ。