リラックス小説「森とわたしと」③
40代ひとり暮らし、20年勤めた会社を辞めてから数年。マンションの部屋からはいつも森が見える。
10月/秋の夜長と味噌スープ
「疲れた……。もうだめ」
スーツのまま畳の上に倒れ込む。久しぶりに着たジャケット。背中はこりにこってガチガチだった。
「通勤電車に乗るのがこんなに苦痛なんてね……」
長年勤めた会社を辞めたのが数年前。それからは貯金と時折のアルバイトで生活していた。でもそろそろフルタイムで働いた方がいいかもと焦りが募り、事務仕事の面接に行ってきたのだった。以前は当たり前のように乗車していた通勤電車。こんなに窮屈で息苦しく感じるとは……。
「これからやっていけるのかな、わたし」
採用の合否はまだ知らさせれていない。もちろん採用されればうれしいし、生活にだって余裕が出る。「でもなあ……」とため息が自然にもれた。
「わたしは本当にあの会社に毎日通えるのかなあ」
畳の上をころがりながら自問自答した。
「というか……、本当に通いたいのかなあ」
なんだか緊張しすぎて頭も痛くなってきた。なんとか身体を起こし、スーツをハンガーにかけ、楽な服装に着替える。
「食欲は全然ない……。でも何かあったかいものが飲みたい」
やかんで湯を沸かし、椀に冷蔵庫から出した味噌をすくい入れる。チューブしょうがを絞り、乾燥わかめをパラリと入れた。沸いた湯が落ち着くのを待ち、椀に注ぐ。ふわりと味噌汁の香りが立ち昇った。
窓際のデスクに椀と箸を置き、一口含む。
「あぁ……。染みる」
窓を少しだけ開ける。秋の夜風と一緒に虫の声が耳に届いた。9月までは頑張っていた蝉もいつの間にか眠りにつき、秋の虫たちに交代していた。最近心に余裕がなくて、そんなことも気づかないでいた。
「この味噌汁うまっ!信州みそと白みそをブレンドしているのがポイントなんだよね。まあ最近ネットで見て試してみただけだけど」
秋の虫たちのリーリーという声に耳を澄ます。マンションの向かいの森からはいつもいろいろな生き物の声がするけれど、この暗闇の中では鳥やリス達はじっとしているのだろう。わたしは森の音に耳を澄ます瞬間がすきだった。
「うーん、フルタイムで働くのは、もうちょっと先がいいかな」
はっきりとした答えは出ないけれど、肩の力を抜いて流れに身をまかせてみよう。そう思った。