美術展雑談『ルーヴル美術館展 愛を描く』
ルーヴルには愛がある!
この堂々たる惹句のとおり、ルーヴル(LOUVRE)の綴りにはLOVEの文字が潜んでいます。本展のタイトルロゴにもそれがわかるように示されています。うまいことできてるもんだと感心します。
けれどアナグラムだとERO LUV(エロラヴ)になるのですよね。そんな下世話な期待に胸を膨らませ、京都市京セラ美術館『ルーヴル美術館展 愛を描く』を見て参りました。とても楽しかったです。
会場でまず最初に出迎えてくれたのは、メインビジュアルの一つでもあるフランソワ・ブーシェの『アモルの標的』でした。
いきなりブーシェを展示しているということで、この美術展のある種の方向性が想像できるではないですか。絵の中のアモルたち全員が私を見て「そうやで。期待通りの下世話な愛やで!」と言ってくれたように感じました。ありがとう、アモル!
ブーシェはロココを代表する大物ではありますが、立場としては好色皇帝で知られるルイ15世のお抱え画家の筆頭です。まずはなにより皇帝様のお気に召すよう腐心するのは当然で、『褐色の髪のオダリスク』にも顕著なエロラヴ描写は、彼の作品には欠かせません。
とはいえもちろん、ブーシェはただの御用画家でないことも事実です。実際に彼の絵を前にして、その凄みを感じないはずはありません。
『アモルの標的』は人が恋に落ちる瞬間の理性では抗えない不思議な感情を、愛の神アモルの無邪気な戯れの仕業として表しています。燃える矢から湧き立つ煙、舞い上がり月桂冠を掲げるアモル、その構図と配色、洗練された軽みが、恋する浮遊感や喜びを感じさせてくれます。
皇帝の権威をおとしめないよう芸術性を保ちつつ、知的エリートを気取る退廃貴族たちのご機嫌を取ることに成功しているのですから、やはりブーシェは天才なのだとあらためて思いました。あのポンパドゥール夫人に気に入られるわけですよね。
展示の序盤は、そういった暇を持て余した神々の遊びの絵画が続いて、鑑賞者を楽しませてくれます。中でもヴィーナス様は堂々と不倫したり嫁いびりしたり、やりたい放題です。ナイスキャラです。大好きです。私の心の中のダメ貴族が、大喜びしました。
しかし貴族たちが絵画の中とはいえ、神々の姿を借りて自身の不徳な欲求を楽しんでいたなら、そりゃあ革命だって起きるよなあとも思いました。その後の新古典主義、ロマン主義の台頭を思えば、ロココの享楽的な作品の存在は、まさに時代のあだ花であったわけです。
本展はとにかく見所がいっぱいです。キリスト教的慈愛とか家族愛とか教訓とか寓意とか、次々にこれでもかというほど濃い作品を見せつけられました。
そんな中でも私の心に残ったのは、ラストに待っていたフランソワ・ジェラールの『アモルとプシュケ』です。もう十分に語られている通り、精神(プシュケ)と愛(アモル)の融合を描いた作品です。
愛の神アモルからキスを受けるプシュケは、なんとも不思議な表情をしています。固く、戸惑っているようにも見えます。そこから、愛を得てもどうしてよいかわからないような少女の無垢さが感じられます。陶器のような肌の質感も、効果的にその印象を高めています。
描かれたのは、1798年です。フランスは革命に揺れ、ギロチンで支配する恐怖政治を経験しました。そんな当時の社会情勢を想像すれば、このような牧歌的な絵画を世に出すことに何かしらの意味があったのではないかとも思います。
何が正義かわからず、混沌として先の見えない世紀末の世の中であっても、人は神から祝福を受けるはずだと言いたかったのかもしれません。あるいは神とともにある人間の尊厳を描いたのでしょうか。
プシュケの頭上に浮かぶ蝶は、美しく変容する魂の象徴です。愛をともなうことで、人の心はようやく美しくなるということでしょう。ジェラールは、愛のない不寛容な現実世界を悲しんでいたからこそ、人々のあるべき理想の姿、あるいは立ち返るべき原始の姿としてこの絵を描いたのだろうと、私には思えました。もう一度神に愛される無垢な人間に戻りましょうと、芸術家が祈っているように感じます。
さて本展を見終わって、やっぱりルーヴルは凄いと今更ながらに思い知らされました。
所蔵品のごく一部にでさえこんなに圧倒されるのですから、もし実際に本物のルーヴルに行ったなら、私は館内で興奮しすぎて倒れるに違いありません。そのときはどなたか、誰にも踏まれないところまで引きずって行ってください。私にはその程度の愛でも、とてもありがたいです。ルーヴルには愛がありました。人の心にも、ありますように。