「見返りを求めてはいけない」という呪い
相手に何かを与えるとき、一切の見返りを求めてはいけない。
無償の愛こそ本物の愛である。
━━よくある教えだ。
そんなことができたなら世の中から戦争はなくなるだろう。
いかにも真理っぽいが、残念ながら人は見返りを期待してしまうものだ。
好きな人にご飯を作ってあげたなら「美味しい」と言ってほしいし、後輩の仕事を手伝ってあげたなら「頼りになる」と思われたい。
しかし、そういう期待を持っていると思い通りにならなかった時に傷付くし、喧嘩にもなるから期待は手放した方が人間関係はうまくいく。
そういう教訓である。
しかし、これは一方で人を苦しめる呪いになっているのではないか。
見返りの本質
人は何かを与えるとき、見返りを期待してしまうものだが、具体的には何を求めているのだろうか?
例えばあなたの気になる人が、夜遅くまでオフィスで残業していたとして、缶コーヒーの差し入れをするのは何故だろう。
同じく缶コーヒーのお返しが欲しいから?
そうではなく、それをきっかけに相手と近付きたいとか、相手を応援したいとかそんな感じだろう。
具体的な「物」のお返しが欲しいという動機で人に何かを与えることはほとんどなく、相手の行動を引き出すためだったり、相手との関係を深めるためであったりする。
そしてその根本は相手の「気持ち」をこちらに向けさせたい、というものだったりする。
恋人に誕生日プレゼントをあげたのに、相手が自分の誕生日にプレゼントを返してくれないことに怒るのは、物を返してくれないからではなく、相手の興味関心がないことに不安を覚えるからである。
相手の「気持ち」が欲しいのはなぜか?
━━承認欲求が満たされるからだ。
相手から好意を向けられると人間は存在を認められた気になるし、尊敬の眼差しで凄いねと言われると自尊心が満たされて嬉しい。
「相手のため」は「自分のため」
「あなたのためを思って言ってるのよ」
親が子供に言う、よくある台詞だ。
これはほとんどの場合、嘘だ。
「そんな格好をするのは恥ずかしいから止めなさい」
恥ずかしいのは親自身であり、子供自身が恥ずかしいと感じていないのであれば、何の問題もないはずだ。
これと同じようなことが世の中にはごまんとある。
「こんな厳しいことを言うのはお前のためなんだ」と言って激怒してくるような人は、自分の中に「理想のあなた」がいて、その通りになるようにあなたをコントロールしたいのだ。
「あなたの喜ぶ顔が見られればそれでいい」と言うような人も、一切の下心や打算がないと本気で言えるだろうか?
あえて意地悪な言い方をするなら、「喜ぶ顔」が報酬として欲しいのだろう?
「推しに貢ぐのが幸せ」というのも、「推しが頑張っている姿」が報酬であって、貢ぐこと自体が自身を満たす行為であるという人もいる。
つまり、結局のところ、「相手のため」を辿ると「自分のため」であることがほとんどなのである。
「期待」を手放そうとしてボロボロになる人達
「無償の愛」を注ごうとする気持ちは美しい。
しかし、自分は「無償の愛」を注いでいると思い込んでいる人ほど相手を見ていないし、「見返り」を求めない愛が正しいと信じて自分自身をボロボロにしてしまう人もいる。
先ほども言った通り、人は「期待」をしてしまうものなので、そういうものだと諦めてしまった方が楽だ。
それを手放すことは自分自身の欲求を抑えることに他ならないから、果てにはあなたの「感情」が死んでしまう。
こんなことを言ったら「欲しがり」だと思われないだろうか?
相手に気を遣わせてしまうだろうか?
このようなことを考えるあなたは、相手のことをしっかりと考えている。
もっと自分を大切にしていい。
あなたの優しさを搾取するような人なら離れた方がいい。
あなたの愛情の形云々の問題ではなく、優しさを与える相手を間違っている。
対等な人間関係であれば自然と持ちつ持たれつの関係になるものだ。
見返りを求めずに与えることができる人は、他人に分け与えるだけの「余裕」があるというだけだ。
「無償の愛」は与えようとして与えられるものではなく、結果的にそうなっているのだ。
もし「無償の愛」を与えたいのであれば、他人に分け与えるだけの余裕がある人になることを目指す方が先だ。