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短歌の批評で「作中主体」は使うべきか、使うべきでないかの考察|調べたら俺の認識がズレまくっていて楽しかった

松たかコンヌです。最近どう、短歌詠んでる?(Hi-Hi風

なんだか、ここ数日、「作中主体」って言葉をよく耳にします。

きっかけは多分下記の石井僚一さんのツイートかなと思います。(少なくとも私のタイムラインでは。違うよ、って場合は訂正しますのでおっしゃってください)
さっそく以下引用します。

いくつかツイートが続くのですが、はっきりと問題提議されたなと思ったのは下記のツイートです。

なるほど〜と思ったり、うーんと思ったりしながらも、本当に石井僚一さんはいままで「作中主体」という言葉を使っていないのか、インターネット上を探したのですが、ざっと調べた感じはマジで出てこなくてびっくりしました。

なぜなら僕は使う派の人間だからです。
短歌だけに限らず、何かを読み解く(自分なりに)ときに「主体がどこにあるかを考えないと道しるべがない」と感じています。
しかし、石井僚一さんがおっしゃる「その用語でいいの?」という感覚はなんとなく、わかります。

さらに気になって、タイムラインをさかのぼって見ていたり、サーチをすると様々な意見があるということがわかりました。

今回は作中主体とはなんぞや、という点を色々と調べて、考察しながら書いたら全然自分の認識と違って面白かったので記事にしました。

例によって、ここからは砕けた口調で失礼します。怒らないでね。「自分は真面目すぎる」という自負がある人はここでリターンすることを推奨します。怒らないでね。

私の主張|松たかコンヌの思う作中主体

まず、使うべきか使うべきでないか、みたいな話になるのであれば、できる限り自分の立場を中立にしたいので、自分の意見を書いていく。
おれは作中主体というのは、「文章が映し出しているものはなにか?」だと捉えている。(後述するが、本来の意味?とは全く認識が違ってビビった。これが独学の怖いところだ)
ここからはおれが「誰からも何も学ばずにどこにも所属せずに短歌をやっている」と言う前提で読んでほしい。じゃないと全部崩壊するから。

主体は切り替わる

短歌は31音という短い詩形だ。だけど、その可能性は無限だ。破ってもいいし、破らなくてもいい。その中では嘘が語られる可能性もあれば、リアルを映し出している可能性もある。連作などで、一文字ごとに場面や登場人物が切り替わっているように見せる(見せたいと願って詠む)ことも可能だ。サンプリングなどで短歌で描いている世界の外側にアクセスする事もできる。何も表現しなくても31音を使い切ることもできる。詠み手の自由だ。
実際、こうした視点の切り替わりや世界の入れ替わり、ミームなどからのサンプリングをしてわからない人は一切無視して文脈を多層化したり、意味のない文字列で表現したいものなど何も無い状態を表現することも多々ある。

自分の短歌を引用するのはどうなんだろうとは思うが、一首引く。

F#m7 F#7 Bm7

連作『鳴ってる?』より

これはシンプルに連作にコード進行をつけただけだ。連作の中間に、ちょっと変なコード進行音が鳴ればいいという意図で作った短歌だ。

じゃあこれをおれが思っている作中主体という言葉の意味で解釈するならば、主体は「音」にある。そしてさらに言えば連作という単位で見れば、主体は連作内におけるコードや音にある。これらは切り替わっていく。
連作は連なっているからこそ意味のある作品だと捉えているので(これも間違ってたらごめん)、連作の一首として短歌を読むとき、主体は全体を通して詩形として描きたいであろうテーマに関連性のあるところに移動し続けるとおれは思っている。これ伝わってるかな。おれが連作をどう読んでいるかは以下の記事等をみていただければわかりやすいかと思う。

このように、おれは短歌を脳内で映像化したり、音楽化したりして楽しんでいる。というか映像や音楽が勝手に再生されてしまう。読んでも、詠んでも。つまり、おれは作中主体というのを「カメラのレンズやヘッドホンやスピーカーが表現しようとしている概念」を指していると思っている。これらは文章中に明記しない可能性もあるし、叙述トリックのように「私」が切り替わる可能性もある。映像や音楽だから、脳内で音が爆音になったり勝手にカメラが切り替わったりエフェクトが掛かったり「そして100年後・・・」みたいになったりする。

だから、おれにとっては、何を描き、場面が何に移っていくのか、どこを切り取っているのかが重要なのであって、その人称が本当にわたしなのかどうかは正直どっちでもいい派だ。(その時のフィーリングかもしれないし、どういう立ち位置で読んでいるかによって変わる)
だって短歌は一人称で書いてあったとしても本当に描かれているものが一人称かどうかはわからないじゃない。もし厳密にそう扱うのだとしたらケルベロスの一人称って本当に一人称なのかみたいな話から議論しなきゃいけなくならない?詩なんでしょ?それともおれが詩というのを自由に捉えすぎ?でもみんな誰かに習ってるんだとしたら短歌ってみんなそのルール内で楽しんでる感じだったん?おれだけ違うゲームしてるみたいでなんかさみしくなるよ。

まあともかく、おれの認識はこんな感じです。
で、作中主体ってなんだろう、って調べたらびっくりした。おれの認識とぜんぜんちがうのな。

作中主体とは?そもそもなんやねん

Google大先生に聞いたところ、強調スニペット(Google検索における最も評価が高い位置。その他の検索結果を踏まえたうえで最も簡潔に検索結果を表しているサイトのみが表示される栄冠)にこのように記載されていた。

ええええええええええええええええええ

ぜんぜんちがう!!!!!おれの認識とぜんぜん違う!!!!おれみんながおれとちょっとちがかったとしてもだいたい同じ意味で使ってるって思ってたよ!!!!

以下、強調スニペットからアクセスしたサイトに書かれていた、作中主体の説明の概要を引用する。

短歌作品の中における、実体験的な詠風から読者が感じられる主人公そのものであり、またはそれを客観視的に視つめながら描き、あるいは感情を吐露する仮想的な作者を意味します。
ある特定の作品範囲(1首から連作、歌集単位)中にのみ存在し得る仮想の作者(詠み人)、ともいえるかもしれません。
このことは、とくに現代短歌の世界で作中主体と言う場合、おおむね読者が感じる作者は、実在の作者個人とは異なることを意味しており、十分に注意しなければならないことが共通的な認識になっています。

使用例
例えば「この歌における作中主体は、恋愛に傷ついた女性であり云々」「この連作で、作中主体は非常に不遇な幼少時代を経験しており云々」などと使用されます。このとき評者は作者個人を必ずしも女性とは思っていないし、不遇な実体験があるとは思っていません。

https://saiteki.me/utapedia-sakuchushutai/#:~:text=%E4%BD%BF%E7%94%A8%E4%BE%8B

超衝撃だった。これマジ?一言一句一緒の考えではないということはわかってるけど、おおむねみんな本当にこの認識なの?
作中主体という言葉がこの意味であってるなら、石井僚一の意見がめちゃくちゃ正しく感じてきた。もっかい引用しとこう。

改めてみるとめちゃくちゃいいこと言ってるな。おれもそう思うよ。松たかコンヌは石井軍につきます。戦は戦国の華よ。

だって、作中主体という言葉の意味をみんながこう捉えている認識なら解釈の幅が圧倒的に限定されるじゃん。主体ってぼんやりとしている場合もあるし、文章で描いている世界とは別の場所にはみ出る場合(サンプリングなどで)もあるんじゃないの?なんで?
てかこの条件に当てはまらない短歌の場合どう読むんだ?その場合主体がないなあ・・・って思うってこと?そんなあ。
そもそもみんな条件化されなければ短歌読めない(楽しめない)ってこと?無理やりこじつけて「これって作中主体これですよね、んで〜」みたいな感じで話してるってこと?なんで!?じゃあ読む短歌って作中主体人格寄り添いゲームやん!みんなで気持ちに寄り添ってるってこと?!どうしてこうなってるの!作中主体がケルベロスの場合、気持ちに寄り添うときってどの頭に寄り添うの!?答えてよ!距離感!!!!


色々考えてたら、気になってきたので、二位のサイトも見たらちょっと余計わかんなくなった。

主体を人として捉えたらそりゃ混乱するのでは

これは二位のサイトで語られていた、作中主体についての文章だ。

大きめのビルがたつ ゆっくりとたつ 新大阪できみがのりすごす

駅の近くに、建設中のビルがある。「大きめの」や「ゆっくりと」は、いずれも主観的な、作中主体の把握であることを意味する。
悩ましいのは下句の「新大阪できみがのりすごす」だ。
ここが僕は、うまく読めない。上句で想像した「作中主体」を、どうやっても一首にしっくりと収めることができないからだ。

https://sunagoya.com/jihyo/?p=1915

おれは最初に書いた通り映像が何を映してるかが主体だと思ってるから、ただ映像が切り替わるように主体が切り替わったんやなと思ってるんだけど、みんなはこの一人称の主体が誰なのかすげー考えるってこと?
そんなこと言い出したらビルが本当にビルなのか、ゆっくりとたつが動作なのか建築なのか考えなきゃいけなくならない?マジ?これ俺が変なこと言ってるってことであってるんだよね?

この記事では、終盤でこのように語られている。

いつ頃からだろう。僕は「作中主体」というものを想定すると、かえって解釈しにくくなる作品が増えてきたような気がしてならない。作者も、読者の側も、もはや統一された作中主体像を前提にしていないかのようだ。

https://sunagoya.com/jihyo/?p=1915

そうだよ!!!!!てかみんな前提にしてるの???!!!!!なんでおしえて!!!!!!てか初期の短歌とか和歌って全部ガチ一人称(?)だったってこと????

でも、このどう考えても俺より短歌詳しそうな人が書いているこの記事から読み取れるそこはかとないセンチメンタルさは、詠む際に統一された作中主体でなければならないという歴史が多分あったのかもと思った。もしくは遊戯王とかみたいにエラッタ(ルール改正)前の楽しみ方だと一人称はこうしましょうね、みたいな感じだったのかもしれない。ちょっと調べても短歌を詠むときは一人称でやろうぜだったり、自分が見たり感じたことを詠みましょうという記事は結構出てくる。

短歌は一人称の文学といわれており、基本的にはいつも「自分」を主題にする。

https://koubo.jp/article/26962

公募ガイド先輩の記事にはこう書いてあった。
これだと、読むときも絶対に私を探してしまわないか……?(というか自分を主題にするのが基本だったの……?)

難しい話だ。おれはみんなが自由に詠めばいいと思うが、みんながある一定の無意識のルールで読んでいると思うと、ドキッとしてしまう。

なんで自分を主題にするのが基本なんだろうな。そうでも、そうじゃなくてもいいと思う。俺が短歌を始めた頃には、短歌を作った人たちはみんないんでしまいよってたし、歴史を厳密に踏襲して短歌を作りたいとは今のところは思っていないので(ごめんだしなんでそんなことしなければいけないの?という気持ちもある)、詳しい人がここらへんを掘り下げてくれたら嬉しいなと思った。

「作中主体」問題の解決案

作中主体使うべきか使うべきじゃないか問題の解決策は、いくつかあると思った。
例えば、みんなでせーので意味をアップデートするのはどうか。(どうやってやるかはまだ思いついていない)
もしくはこういう意味で使ってますというのをあらかじめ伝えるか、とかしかない気がする。
もしくは使わないか。違うけど同じような意味の言葉に変えてね。
どの選択肢も現実的なんだよなー。と感じるのはおれだけだろうか。

現実的じゃないのはこのままの意味で使い続けることだと思う。そうだとしたら、存在しない作中主体(みんながいうところの)を探し続けることになる。これからもっと増えてくと思うよ、そういう短歌。

残酷な認識かもだけど、読むときの短歌は客観的に見れば文字列でしかない。自分で詠んだものもだ。これを価値あるものと認識を変換しているのは読み手側である。
だから、
短歌を冷静に語るには、文字列→意味のあるかもしれない文章→短歌ぐらいの認知のプロセスの分解が必要かもしれない。

最初から人称が存在すると定義するなんて、もはや固定概念で物事を考えすぎだ。どこがどう良かったかを自分たちだけが分かる言葉で話してて、それが時代の流れとともに崩壊し始めたからって、自分たちを守るために騒いでるのもなんかダサくみえるしね。(あくまでおれはだけど)

みんな自由に一旦作中主体にあたる言葉をおのおので変換していくのがいい気がした。

初心者や読み専の方には、作中主体って使わないほうが良い

初心者や読み専の方には、作中主体って使わないほうが良い気がする。余計わけわからなくなるだけだ。
そもそも、31音の中から意味を見出すのって難しいと思う。だったらそんなわけわからない言葉使うより、音の響きとか言葉の並びの美しさとかも含めて、全体的な楽しみ方をお伝えしてほしい。

だって、別に作中主体という言葉を使わなくても、「これってこういうことを表現したいんだよ」とか説明できるはずでしょう。それは、主人公って言い方でも、作者って言い方でも良いかもしれない。厳密じゃなくていいと思う。この場合は。ただ、主体って言ってしまうと認知に階層ができるからだめだ。初心者や読み専の人には優しく、あったかく。閉じずに、開く。そうじゃない文化ってことごとく終わってる気がするから。

【宣伝】感想ハックコンテストやってます

ちょっとだけ宣伝させてください。感想をハックするコンテストをやってるので、ぜひ参加してほしいです。副賞もあります。作中主体という言葉に自信ニキ、ネキの参加をお待ちしてます。下記の記事から詳細をどうぞ。2025/03/15ごろまで募集中です!

感想はDMなどでいただけていて、ほんっっとうにめちゃくちゃ嬉しいのですが、ことごとく感想ハックコンテストへの参加は断られています。これを読んでいる皆さん、あなたの感想を待っています。ぜひ検討をお願いします。

宣伝終わり。失礼しました。

俺はこれからも主体という言葉は使う

そんなこんなで俺はこれからも俺の意味で主体という言葉を使っていこうと思った。俺の選択肢は「前置きする(俺はこういう意味で主体っていってるよ)」という感じで一旦は行こうと思う。意味のニュアンスはその時によって微妙に変化すると思うし、ここらへんは柔軟にやっていきたい。

みんなはどんな選択をする?ぜひご意見お待ちしてます。




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