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〔ショートストーリー〕居酒屋にて
働いているのは家族のため。妻の紗絵と幼い娘の瑠美は、俺の大切な宝物。そう思ってきたのだが、最近、そのことに疑問を抱くようになってしまった。
いつも優しい微笑みで俺を癒してくれていた紗絵は、母親になって変わった。以前は帰りが遅くなっても起きて待っていてくれて、玄関を開けて出迎えてくれたのに、この頃はそっと自分で鍵を開けて入っている。瑠美を寝かしつけるとき、紗絵も一緒に眠ってしまうようだから、仕方がない。
俺が帰った物音に気が付くと、起きてきて食事の用意をしてくれるが、大抵は温めるだけ。以前のように、揚げたての天ぷらや、焼きたての魚が食卓に並ぶことはほとんど無い。そして俺の食事が終わると、サッサと食器を洗って片付け、すぐに寝に行ってしまう。最後にゆっくり話したのは、一体どのくらい前のことだろう。
もちろん、俺も頭では分かっている。紗絵は瑠美の世話でいっぱいいっぱいなのだ。俺はいつも帰りが遅く、まともに子育てに関われていない。俺だって一人娘の瑠美は可愛いし、大切に思っているから、ワンオペで頑張ってくれている紗絵には感謝している。
週末には俺も、たまにおむつを替えたり、紗絵が用意した離乳食を食べさせたり、お風呂に入れたりもする。が、それらは日常ではなく、イベントのようなものだ。紗絵にとってはこれら全てが日常で、自分の時間すらほとんど無いはず。それは分かっている。分かっているのだが、どうしても新婚時代の幸せな生活を思い出すと、虚しくなってしまう。
以前は気が進まなかった泊まりがけの出張を、いつしか心待ちにするようになっていた。適当な店を探して、アツアツの夕食と、少しばかりのアルコールを楽しむ。妻の機嫌を気にすることも、娘の泣き声に邪魔されることもない。酷い夫、酷い父親だと思うが、俺のささやかな息抜きなのだ。
ビジネスホテルの近くをブラブラ歩いていると、こじんまりとした居酒屋を見付けた。客も適度に多そうなので、料理も旨いに違いない。俺は今日の夕食をここでとることに決めた。
「いらっしゃい!何名様で?」
「一人です」
ではこちらへ、とカウンター席へ案内される。隣の席では、年配の男性が一人で肉じゃがを食べながら、チビチビと日本酒を飲んでいた。
「お兄さん、出張かい?」
急に話しかけられて、ええまあ、と言葉を濁してやり過ごす。せっかくの息抜きを邪魔されたくはない。だが、年配の男性は俺の気持ちなど知らぬ顔で、一方的に話し始めた。
「私はね、時々ここに夕飯を食べに来るんだよ。ここの肉じゃがは旨いからねえ。家内が作ってくれてたのと、味がよく似てるんだ。お兄さんもどうだい?」
「は、はあ……」
面倒臭そうに返事をすると、男性は嬉しそうに笑った。
「大将!この人にも肉じゃが頼むわ。私の奢りでね」
「はいよっ」
気が付くと俺は肉じゃがを食べることになっていた。今日はそんな気分じゃ無かったのだが、しょうがない。から揚げとビールを自分で頼み、肉じゃがとこれで夕食を済ませることにする。隣の男性はニコニコしながら、更に俺に話しかけようとしている。マジかよ、放っといて欲しいんだけど、何で伝わらないんだろう。
「ね?旨いでしょ?妻も料理上手でね、いつも旨い飯を作ってくれてたんだよ。なのに私ときたら、そのことを有り難いと思わず、当たり前だと思ってたんだなあ。食えなくなってから、そのことに気が付くなんて、間抜けな話だよ」
ふと思った。この男性、奧さんに逃げられたのか?不意に興味がわいて、つい尋ねてしまった。
「あの、奧さんは……」
「ああ、寝ちゃったんだよ。眠り姫みたいに、ずーっと眠りっぱなしで起きなくなっちゃった。そんなに私が嫌になったのかねえ」
淋しそうに笑って、男性は続けた。
「仕事ばっかりの私をさ、文句も言わずに支えてくれてたんだよ。なのに私は、自分ばっかりが稼いでやってる、養ってやってるって、心のどっかで思ってたんだなあ」
「一人娘の学校行事なんかもね、ほとんど行ったことなくて。大学出て、就職して、結婚して、もう遠くへ行っちゃったよ。今さら思うんだよね、もっと小さい頃から娘を見ていれば良かったって」
男性は日本酒をおかわりし、俺もビールの追加を頼んだ。
「娘は年々、私には何も話さなくなっちゃってね。家内が伝言係みたいに繋いでくれてたから、何とかお互いのことを分かってたけど、今はもう話すこともないの。自分なりにはさ、娘を可愛いと思ってたつもりだったのに、それってただの自己満足だったんだよね。何も伝えてないし、伝える努力もしてなかったし」
俺はドキッとした。俺の娘はまだ幼いし、まだまだ先の話だが、何故か自分の未来のような気がしたのだ。
「娘に言わせると、家内がああなっちゃったのは私のせいだって。妻の役割と母の役割を押し付けて、家内の本当の気持ちなんて知ろうともしなかっでしょ、ってね」
「奧さんの本当の気持ち……?」
「そう。何が好きで、何が嫌いか。私のどんな言葉に傷付いて、何を諦めてきたのか。妻として、母としての責任を求めてばっかりで、家内の言葉を聞こうともしなかったよね、って。泣きながら言われてさ、私は返す言葉も無かったよ」
男性は日本酒の追加を頼むと、泣き笑いのような顔で続けた。
「娘が小学校の頃にね、ほら、参観日ってあるでしょ。家内がブラウスを一枚買って、私に見せたことがあってね。薄い青色の、少しこう、襟がヒラヒラっとしてるやつ。これで参観に行こうと思うんだけど、どうかなって」
男性の声が震えている。自分を励ますようにクイッと酒をあおると、目を伏せて続ける。
「私ね、ロクに見もしないで言ったんだ。わざわざそんな物買って、何はしゃいでるんだって。参観日の主役は子どもなのに、お前がはしゃぐなんてみっともないって。自分は参観日のことすら忘れていた癖に、酷いでしょ。それで家内は、そのブラウスを着ていくのを止めたんだよね」
俺は何と言って良いか分からず、男性から少し目を逸らした。
「私も定年になって、これから二人でやっていこうと思ってたんだよね。それなのに、退職日の翌日、家内が倒れちゃって。私のパンとコーヒーを用意してるときに、バタッて。それっきり、目を覚ましてくれなくてさ」
段々と男性の声がか細くなっていく。
「パンとコーヒーぐらい、自分で用意すれば良かったんだよね。そしたら、もしかしたら、まだ家内は起きてたかも知れないのに」
とうとう男性は耐えきれなくなり、ボロボロと涙をこぼした。それでも涙声で話を続ける。
「入院準備なんて言われても、私は本当に役立たずでね。家内の着替えすらどこにあるか分からなくって、あちこち引き出しをかき回してさ。そしたら、一番奥から出てきたんだよ。あの、青いブラウスが。小さく畳んで、色も褪せて、デザインも古臭くて、でも」
ひとつ鼻をすする音。俺も視界がぼやけてきた。
「でも、ずっと大事に仕舞ってたんだなって。それに昔の家内なら、きっと似合ってた。きっと綺麗だったと思うのに、何であの時、そう言えなかったのかって。私はね、ずっと後悔してるんだよ。ずっと、ずっとね」
ここで無理矢理顔を上げて、男性は微笑んだ。
「だからね、家内が目を覚ましたら、今度は私がブラウスを買ってやるんだ。家内の好きな色とデザインの、着心地の良いブラウスを買って、家内の行きたい所に行くつもりなんだよ。私も一緒にね」
店を出ると、男性とは会釈をして別れた。あの男性の奧さんは、いつか目を覚ますのだろうか。そして夫の懺悔を聞き、許し、共に旅する日が来るのだろうか。どうかそうであって欲しいと心から願う。
今、俺は無性に紗絵と瑠美に会いたい。帰ったら、紗絵には、夕食ぐらい自分で温めると言おう。自分の食器ぐらい自分で洗うさ。大して父親らしいことも出来ないけれど、それでも出来るだけのことはやる。
そして紗絵と話そう。俺の盛大な我が侭と勘違いについて謝って、これからのことを語り合いたい。
ビジネスホテルまでの帰り道、冷たい夜風に当たりながら、ふと、紗絵と瑠美が風邪などひいていないか気になる。こんな心配すらこれまでしてこなかったのだと、改めて気付かされた。
明日には二人に会えるのだと思うと、心が満たされていくのが分かる。静かな夜空には、オリオン座が美しく輝いていた。
(完)
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小牧さん、お手数かけますがよろしくお願いいたします。
読んでくださった方、有難うございました!