将棋と私
小さい頃、祖父と兄と一緒に将棋を指していた。
一番古い将棋の記憶から掘り起こしていこうと思う。
今は無き商業施設の催事場に、祖父が軽トラックの助手席に私を乗せて、将棋盤を買いに行ったことを今でも覚えている。
なんでも本物が好きだった祖父は、足付きの将棋盤を選んだ。幼稚園児だった私はその値段をチェックしなかった。幼稚園児だからである。祖父の横でアホの子のように舞い回っていたが、その買い物が自分にどう影響するのかはとんと気が付いていなかった。
催事場の男の人は、「お孫さんが指すなら、駒はプラスチックの物がいいでしょう。本格的な駒は、もっと大きくなってからがよろしいのでは」というようなことを言っていたと思う。祖父はそれに従った。故に、うちにある駒はプラスチック製だ。
帰宅して。足付きの盤は、駒さえあればそれだけで将棋を指すことができるという台がいらない高さのものだった。今なら言える。
「じいちゃん、これ、いくらしたん?」
しかし、祖父はもう永眠している。残念である。
祖父はまず、私と兄に将棋の駒で双六をさせた。金四枚を投げて、歩から始まり将棋盤の外周を一周したら駒が一つずつ成り上がっていき、最後は王になって真ん中に進んだら終わり、そういうゲームである。金転がしと呼んでいた。
今思えば、駒の順列を覚えるのに良いゲームだった。
祖父は金を転がすのがうまく、駒が立つことが多い。駒が立つと10進め、横に立つと5進めるので、一回で30マス以上すすんだりもしていた。私はといえば、駒が盤から落ちて一歩下がることになる「しょんべん」ばかりを出していた。相手の駒と同じマスで止まれば「同行二人」で二人とも二マス進める。相手の駒を超えていくときは相手の駒を踏んづけて超えていく。子供だからである。プラスチックの駒で良かったと、つくづく思う。
次に、歩二枚で相手の駒を挟んで取る「挟み将棋」。単純ながら、なかなかに戦略が必要で、負けると悔しかった。ハサミ将棋は短時間で勝負がつくのも良い所だ。
そして。
小学校の高学年になる頃だろうか。本将棋を教わった。
どうしても銀と金の動きが覚えられず、対局相手の祖父に何度も訊いた。戦略もへったくれもない状態だが、祖父は根気よく付き合ってくれた。
本将棋は難しく、頭を使うが、指し終えるとなんとも言えない達成感があった。
指す前の、駒が全部整列している所もカッコいい。本将棋を指すと、なんだか大人になれたみたいで嬉しかった。
しかし、子供は色々なことに興味がある。私は将棋だけに向き合うことはなく、将棋はあくまでもオセロや人生ゲームと同列のゲームだった。将棋と私は、当時から付かず離れずなのである。
中学生になった頃。私はシンガーソングライターの谷山浩子さんに夢中だった。CDはお小遣いの都合で買えなかったから、文庫本が出るたびに買い漁った。その谷山浩子さんが、『おとめちっくサラダタイム』というエッセイの中でこう言っていた。(と記憶している。)
「将棋の羽生善治さんに注目しています」
好きなアーティストの注目の人物、しかも将棋なら少しは馴染みがあるぞ。私は早速、羽生善治さんをチェックした。まだまだ氏が若手と呼ばれていた頃のことである。(しかし、見る間に7冠を達成された。天晴れ。)
それからは、NHKで将棋中継がある度に、見られる時は出来るだけ見た。まぐれなのか素人の藪から棒なのか、見ていると次の一手を当てられることが稀にあった。嬉しかった。
高校に入ると私は大学受験の勉強に忙殺され、将棋はさほど指さなくなった。その頃には祖父もだいぶ弱っており、対局は難しかった。
それから、将棋とは付かず離れず。私は気が向いた時に対局相手が見つかれば将棋を指し、居なければ将棋を指さなかった。今のようにネットが発達していなかったことも一因だったかもしれない。
やがて、AI将棋が導入され、ニコ生にかじりつくことにはなるのだけれど。
今は時々、気が向いたらアプリでプログラムと対局する。
人と対局すると、私は終盤で実によく詰将棋を見逃すから、対局相手によく詰将棋を解け、と言われる。(ここから推察される通り、私はよく負ける。)
自玉の詰みを見逃して相手玉を詰めようとするのだから、なかなかのへっぽこぶりである。
将棋は楽しいゲームだ。昔は複数人が集まって、ああでもないこうでもないと縁台将棋をしたという。負ければ悔しい。悔しいから勉強する。勝てば嬉しい。嬉しいからまた将棋を続ける。
そういう風にして、年代問わず一生続けていけるのが、将棋というゲームの良い所だと思う。
将棋で培われる思考力は、一生の宝物になるのではないだろうか。
私はそう思って、時々、将棋の本を開いてみたりするのである。
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