文化と心とFFと。「ファイナルファンタジーXVI」
日本は「木と土」の文化、と言われている。
「木」はみんなの「家」になり
「家」には「紙」として「窓」の代わりに
なって、「土」は「木」を育てる。
土は「壁」や「陶器」となり
暮らしに欠かせない素材が風習となって
日本を形どった。
対してヨーロッパは「鉄と石」の文化だ。
鉄を作り出したことにより、人は強くなり、
ケモノを狩ることに特化した。(使い方はさまざまだけど)しかし、長いこと支えてきたのは、紛れもなく「石」の存在。
「石」の建築、石の容器、石の道…
貴族のステータスである「ガラス」も「石」だ。
異なる文化…異なる生い立ち…
文化が違えばそりゃ流れる「歴史」もトーゼン
変わる。
ゲームの中でも「文化」は在る。
もし、それがあったならこういった「歴史」を
たどるのもうなずけるかも知れない。
「鉄」と「魔法」
「ファイナルファンタジー」はどのシリーズでも
「鉄対魔法」のお話し。
カンタンに言ってしまえば
「チカラ」と「アタマ」
異なりそうで同じ源泉であるようなないような
モドカシサもあるけれど、どちらかに「偏った」
国同士が分かり合えることは、少ない。
どんなにステキな庭園だろうと「人の手」による
テコ入れは欠かせない。
「鉄」を使うのも「魔法」を使うのも
扱うのは「人」だからね。
「アタマ」を使おうと、「チカラ」を使おうと
どちらにせよ、それに「特化した人」または、
「特別に秀でる人」が生まれる。
はたから呼びやすい言い方をすると「天才」
「天から授けられた才」もしくは
「神から祝福を受けた特別な人間」と呼ばれる。
ヨーロッパ圏、もしくはキリスト圏では
この「才能を活かす」ことが「仕事」であり
「誰にでも出来る業務をこなす」ことは
「仕事」とみなされない。
むしろ、「労働に従事するだけ」の人々は
時に「迫害」にあったりするのだ。
日本もね、まぁなくもないよね。
そんな人々でさえ、たまに「成り上がり」功績を
残し、「王族」にまで登りつめる「人」がいる。
同じ「人」でありながら、受ける扱いは
立場で大きく変わる。
農作業者には「恵みの雨」でも
「通勤が遠いサラリーマン」では「雨」は
うっとうしいだけのように。
それがどうこう言うつもりはないけれど、
「人扱い」されない悲しい現実がある、と言うことは、覚えておいてもいいかもね。
「鉄」に長けた人
「魔法」に秀でた人。
どちらに与することなく、両方にも祝福されなかった「人の心」には「やさしさ」が宿る。
思いやり、と言いかえる方がいいのかな。
他者と自分を分けることなく受け入れ、「才能」がないことを自覚し、「才がない人」のためにも「自分が受けた使命」のような変えがたい現実のためにも日々精進することをいとわない。
たぶん、こういうタイプの人は
どれだけ腕を磨こうと知力を鍛えようと
「まだまだ足りぬ」ことを知っている。
「鉄」の文化だろうと
「魔法の文化」だろうと、そこにあるのは
「人」である以上なにも変わらない。
好きなもの、日々を費やすモノやコトに
切磋琢磨でき、「考える」ことができるのは
「人」が持つ類いマレな、他の動植物にはあまり見受けられない「努力」こそが「天から授けられた才能」
「人が持つ」「才能」に変わりはない。
「鉄」だろうと「魔法」だろうと。
「紙」だって「石」だって同じさ。
「AI」が日々バクシンしている現在、これからの新しい文化になり得る可能性はある。
「言っていることがまとも」
「いい話し相手」
色々な声が聞こえてくる。
中にはAIで作成した写真が、「世界的に名誉ある賞」を取ってしまった、なんて事例もある。(フォトグラファーは賞を辞退したけど。審査員を「試した」そうだ。
おわかりだと思うが、AIが提示してくれたその「コタエ」を「受け取る」のは「誰だい?」
AIがAI同士を褒め称えあっているのか?
ちがうよね。「AIがすばらしい!」って
言っているのはあくまで、「心を持った人間」
「あくまで『人』」なのだ。
こんなモンスターがウヨウヨいる世界なんて生きている心地がしないのだけれど、「人」が「人として」生きていく限り、どうしたって討伐するしかないでしょうね。
だって「臭い息」を常にばら撒かれたりしたら、生きてくの辛いもん。てか嫌だよね。
ごめんねって思いながらもモルボルちゃんの「進化」と「なつかしさ」に心さされながらも、「倒しがいのある「いい相手」だったよ。
2回ほどやられ、悔しい思いをしながらも、
「次の一手」のために
「シコウサクゴ」
上手く行ったり行かなかったりの
「ウヨキョクセツ」
それを乗り越えた後に感じられる「セイチョウ」
動かなくなったその「ナキガラ」に敬意が生まれた瞬間、ぼくも「人である」ことの「心のレベルアップ」が体験できた。
「あぁ色々あるけれど、人としてのもの」は
まだまだあるんだなぁと。
迷いながら飛び込んだ海は果てしなく広くて
抱えた浮き輪は少し頼りないけれど、「飛び込んでみてよかった」と心底思う。
もし、あなたが「ファイナルファンタジー」を知らないのでしたら、この最新作、「ファイナルファンタジーXVI」から始められることをおススメします。
一見、難しそうに見えるかも知れませんが、その「手触り」は「非常に優しく丁寧」で「今まで」とはまったくちがう体験が出来ます。
かと言って優しすぎることもなく、やっぱり「考える」ことは避けられません。でも乗り越えられないほどでもない、いいバランス。
リトライした時やストーリー用に戦闘がカンタンになる救済モードもあり、これほどチカラの入った作品であるにも関わらず、「RPG、またはアクションゲームがはじめての人向け」にテコ入れしたのは、「歴史あるゲーム」ではそう生易しいことではなかったはず。
よくぞここまで…と感服したしました。
年代的に「RPG」=「スクウェア」
「スクウェア」=「ファイナルファンタジー」
最新作がリリースされる度に歓喜し、あーでもないこーでもない、と語り合い、そして離れていった世代です。良くも悪くも「ファイナルファンタジー」を浴びてきたぼくら。
「FFらしさってよくわからないよね」が合言葉。それはもしかしたら、「ゲーム文化」が
まだまだ発達途上にあった只中にいたせいで、迷っていたせいかも知れません。
でも「人としてだからある、迷い、苦しみ、ヨロコビ、笑い」が「ファイナルファンタジー」という巨大なコンテンツであったのは確か。
「ファイナルファンタジー」と共に成長してきた、と言っても言い過ぎてはいません。
ぼくも残念ながら「FFから離れた」ひとり。
10以降はほぼ知りません。
でも血の中に流れる「ファイナルファンタジー」は決して薄れることなく、DNAに刻み込まれています。
「ファイナルファンタジー」を生きてきたぼくら世代が、「あの頃のFFだ!」とも感じられる世界観。空気。セリフ…。ここに流れる「ファイナルファンタジー」としての「文化・歴史」が全て入っていいます。
ちょっとオトナな描写もなくもないので、お子様がいらっしゃると「ヒヤッ」とする場面も、なくもないことは覚悟してください(笑)
プレイするには少しお値段のする「プレステ5」と
「ファイナルファンタジーXVI」、それに
デッカいプレステ5を「置く場所」と
「少し重たいコントローラー」を持つ覚悟も
必要ですが。
ぼくはもしかしたら最後までプレイしても、
好きになれないかも知れませんが、「誰にでも」
おススメできる「ファイナルファンタジー」で
あることは変わりありません。
「帰ったらFFやろうっと♪」
と自然に思える自分がここにいます。
「心こそが人として残された最後のファンタジー」
ステキな月を眺めながら。
「心の探究」に、いざゆかん。
今回のお話しはおしまいです。
最後まで読んでくださりありがとうございます♪
コケでした〜。