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メンタル改善努力日記〜思考を止める〜

反芻思考、ぐるぐる思考、自動思考の辞め方を自分なりに分析してみました。
「悩むな」とか「考え過ぎ」とかよく言われるんですが、「悩まない」ように、「考えない」ように「努力する」しかできないんですよ。
そうじゃなくて、「悩み」を「議題にあげない」が大事なんじゃないかと気付きました。
この悩みに対して、この思考領域を使ってはいけないんじゃないかと。
そして、この解決できない悩みを研究し過ぎ。
自分、不条理研究家だったんです。

「悩み」ってたぶん解決しないんですよ。解決する問題は悩みませんし。
ここから「悩み」=「不条理」と言い換えることにします。
「不条理」を解決しようと、一生懸命分析し、何かできることはないかと考えます。
でも、「不条理」を分析した結果得られるものは、「この不条理は、不条理である」という結論なんです。とすると、次に思考しなければならないのは、「この不条理は、不条理である」を解決しようと分析することになります。
永遠のループです。
この状態の脳内は、パソコンで言うところのエラー表示が画面いっぱいに出てしまっている状態じゃないでしょうか?
これを続けてしまうとフリーズしてしまいます。
もう完全に視野狭窄です。エラー表示に覆われて他の作業はできません。
この状態が、反芻思考の正体なんじゃないかと思いました。
不眠症で寝れないときに、寝ようと努力すると余計に寝れなくなると言われました。寝なきゃいけないという問題を議題にあげてしまっているわけですね。
悩むなと言われると、悩まないようにしなければという問題を脳内の会議室の机上に置いてしまっているわけです。
「不条理」はどこまでいっても「不条理」であり、あれこれと原因を追求するほどに、雪だるま式に膨れ上がります。小さなことでも、自分の生い立ちとか、性格がいけないんじゃないかとか余計な肉付けがされてしまいます。
逆に、「条理」を思考することはどうなのか?
「条理」はどこまでいっても「条理」なので考える必要がありません。「悩む」の反対はなんでしょう?「悩まない」?まぁ、どうにせよ、無駄な思考はしていないと思います。
世界の構成要素は「不条理」か「条理」のどちらかに限られると考えると、思考する必要が無いことに気付きます。

「議題にあげない」というのはどうすればいいのでしょうか?
イメージでいいのかなと思います。
・脳内の会議室のテーブルに置かない。
・脳内パソコンのファイルを開かない。
・頭で考えない、腹で考える。
いろいろ、言い換えが可能なので、それぞれにあったイメージでOKだと思います。
捨てるんじゃなくて、どこかには有るという状態を維持する。たぶん、あそこの引き出しにしまってあるなぁとか。
これこそが「あるがままに」とか「マインドフルネス」な状態と言えるのではないでしょうか。
反芻思考で視野が狭まっている状態から脱却して、今をみつめる。

真面目な人が鬱病になると言われるのは、頑張って解決しようと「不条理」を議題にあげるからなのかもしれません。
クンバハカという瞑想法で、お尻の穴を締め、丹田に意識を集中させ、肩の力を抜く、というものがあります。
「腸脳相関」というメカニズムもあります。
思考の領域を腹にもってくるというイメージも面白いなと思います。
実際は脳を使っているのかと思いますが、思考を腑に落とすという考え方。
腹を据える。
何かを解決しようとする思考領域は創造性が豊かなので、ここにネガティヴを突っ込むと肥大化してしまうんですかね。なので、ここの領域はポジティブでクリエイティブな事に対して使いたい。

タイトルの「思考を止める」は、本当のところは無理なんです。思考を止める努力をしてしまうから。瞑想の達人でもどうなんでしょうか?だから、思考の場所をズラすって考えたらいいんじゃないかと。
この世は不条理の塊です。宇宙自体が不条理です。なので悩んではダメ。
でも、そのカオスな世界に自分は生きてるって実感すること。
この結論が悟りなのかもね🐾

※「不条理」という言葉を使ったのは、「シーシュポスの神話」からですが、不条理に反抗するのではなく、不条理は放っておくのが良いのかなと思った次第です。

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