「なりたい自分」になれない人へ
突然だが、あなたはどんな人間になりたいだろうか?
「優しい人間になりたい」
「心の強い人間になりたい」
「他人から頼られる人間になりたい」
などなど、人によって様々な望みがあることだろう。
だが、なかなか「なりたい自分」になれずに苦しんでいる人も世の中には多い。
そういう人たちは、「こうなりたい」という理想はあるけれど、その通りにはならなくて苦悩しているのだ。
だが、その苦しみは本当に必要なものだろうか?
というのも、私たちが何らかの理想を抱く時、本心から「こうなり“たい”」と思っている場合だけでなく、「こうなる“べき”だ」と考えて、いたずらに自分を追い詰めてしまっていることもあるからだ。
今回の記事では、「なり“たい”自分」と「なる“べき”自分」について解説する。
「なりたい自分」と「なるべき自分」との間には、どんな違いがあるのか?
そしてまた、私たちが「こうなりたい」と思う時、そこにはどんな問題や落とし穴があるのかについて、一つずつ考えていってみようと思う。
「人としてこうありたい」という想いを抱えながらも、なんとなく生きるのが辛くなってしまっている人は、ぜひ読んでみてほしい。
◎価値観に「正解」は存在しない
まず最初に、「なりたい自分」と「なるべき自分」の違いについて説明しておこうと思う。
「なりたい自分」とは自分が本心から求めているもので、「なるべき自分」とは他人から求められて目指している理想像だ。
「なりたい自分」は「自分の価値観(自分が何を価値だと感じているか)」によって決まり、「なるべき自分」は「他人の価値観(他人が何を価値だと思っているか)」によって決まる。
言い方を換えれば、「なりたい自分」は内発的なものであり、「なるべき自分」は外側から押し付けられたものだとも言えるだろう。
ただ、この二つの区別は、表面上はできない場合が多い。
なぜなら、価値観には「絶対的な正解」というものがないからだ。
「何を価値だと感じるか」は人によって違う。
たとえば、「他者に貢献すること」などは、一見すると「絶対的な価値」があるように思えるが、それを自分が本心から望んでいないのなら、当人にとっては価値ではないのだ。
確かに、私たち人間は誰かの役に立てた時、深い喜びや充足感を感じる生き物だ。
だが、「もっと他者貢献しろ」と誰かから命令されて、いやいやボランティアに従事したとしても、それによって本人の心が満たされることはない。
「他人から押し付けられた価値観」は、たとえどれだけ正しそうに見えても、「自分の価値観」に反する限り、当人にとっては無価値なのだ。
◎「他人の価値観」に支配されてしまう理由
「今の自分」に満足せず理想を追い求めている人の多くは、「なりたい自分」ではなく、「なるべき自分」を追いかけている。
つまり、「自分の価値観」に基づいて生きておらず、「他人の価値観」に従って生きているのだ。
だから、どれだけ努力したとしても、真に満足することはない。
なぜなら、それらの努力は、「自分の心」を満たすためにおこなわれたものではなく、「他人の期待」に応えるためになされたものだからだ。
「学校でいい成績を取りなさい」
「社会に出て一人前に働きなさい」
「会社に勤めたら簡単には辞めずに頑張りなさい」
そんな風に、世の中の他人は私たちに多くのことを求める。
そして、それに応えられなければ、私たちは「生きる価値無し」という烙印を押されてしまうことになる。
ところが、私たちは誰しも「他人に認めてもらいたい」という欲求を多かれ少なかれ持っているので、他人から「無価値だ」と思われることをひどく恐れる。
それゆえ、知らず知らずのうちに、「自分の価値観」ではなく、「他人の価値観」に従って生きるようになっていってしまうのだ。
◎「なるべき自分」を目指している人は、「愛」や「承認」を求めている
これに対して、「なりたい自分」を目指して生きていくと、人はそれだけで満たされる。
「なりたい自分」に向かって生きている時、その人は「自分の本心からの欲求」に従っているので、自然と心が満たされていくのだ。
だが、「なるべき自分」を目指しても、人は直接的には満たされることがない。
というのも、「なるべき自分」を目指すとき、人は「心の満足」それ自体を求めているのではなくて、「愛されること」や「認められること」を求めているからだ。
もちろん、「愛されたい」「認められたい」という感情は自然なものだ。
そして同時に、「実際に誰かから愛されたり認められたりすれば、自分の心は満たされるはずだ」とも私たちは思うのだ。
そういう時、「なるべき自分」を目指すのは、「愛」や「承認」を得るための手段に過ぎないことになる。
愛され、認められたいからこそ、「他人の期待」に応えようともがくわけだ。
そして、そのような努力の結果、「愛」や「承認」を得ることができれば、やっと自分の心が満たされる。
自分の心を満たすために、「他人の期待に応える」→「愛や承認を得る」→「最終的に心が満たされる(かもしれない)」という回り道が必要になるわけだ。
◎「愛」や「承認」を求めていると、過程そのものを楽しめない
そういう意味では、「なるべき自分」を目指す生き方は危ういものだ。
なぜなら、「なるべき自分」を目指す限り、自分の心を満たすためには他人から「愛」や「承認」を得なければならないが、それが本当に得られるかどうかは、常に他人次第だからだ。
たとえば、SNSでどれだけ頑張って情報発信してもフォロワーが増えないかもしれないし、誰かに一生懸命に尽くしても振り向いてもらえないかもしれない。
どれだけ努力したとしても「愛」や「承認」を得られるとは限らないし、結果として、他人に振り回され続ける人生になってしまう。
また、当人がそんな風に頑張って努力するのは「愛」や「承認」を得るための手段に過ぎないので、情報発信することや誰かに尽くすこと自体に喜びがあるわけではない。
たとえば、ブログを書くこと自体が好きなら、たとえフォロワーがなかなか増えなかったとしても、更新作業の過程そのものを楽しむことができるだろう。
反対に、ブログを書くことがそれほど好きなわけでもないのに、「他人にたくさん認めてもらいたいから」という理由で文章を書くなら、更新作業は苦痛だろうし、他人のフォロワー数を見ては自分と比べて一喜一憂することになるはずだ。
このように、「なりたい自分」を目指すなら、その過程そのものを楽しむことができるが、「なるべき自分」を目指す場合、欲しいのは他人からの「愛」や「承認」なので、過程が楽しいかどうかということは度外視される。
「なるべき自分」を目指す限り、たとえどんなに苦しくても、「愛」や「承認」を得るために歯を食いしばって頑張らねばならなくなってしまうのだ。
◎自分を満たさなければ、誰のことも満たせない
こういったわけで、「他人の期待」に応えようとするあまり生きることが苦しくなってしまっている人には、私は「なるべき自分」から思い切って降りることを勧める。
「他人の期待」に応えるのではなく、「自分の欲求」を満たすために生きてみてほしいのだ。
もちろん、そんなことを考えていると、「自分のことばかり優先してはいけない」という声もどこからか聞こえてくるだろう。
だが、それは本当に「あなた自身の心の声」だろうか?
むしろそれこそが、無意識の中に植え付けられた「他人の期待」に他ならないのではないだろうか?
自分を真に満たすことができなければ、他人を満たしてあげることもできない。
自分の中が「愛」や「承認」への飢えばかりで、心がカラカラに渇いている時には、他人に何かを与えることなどできないのだ。
そんな状態でもし何かを与えられたとしても、それは自己犠牲に繋がるだろう。
しかも、「愛」や「承認」といった見返りを求めた自己犠牲だ。
その先に、決して明るい未来は待っていない。
より一層、「愛」や「承認」に飢えて渇き、遅かれ早かれ自分の中が空っぽになってしまうだろう。
そうなったら、最終的には自分の人生を生きていく気力すらも枯れ果ててしまう。
そうならないためには、どこかで「他人の期待」より「自分の欲求」を優先する必要がある。
自分自身を満たすためにも、そして、自分を満たした結果として、他人に気前よく何かを分け与えられるようになるためにも、「こうするべき」という頭の声より、「こうしたい」という心からの声を大事にするのだ。
◎自分が「愛」や「承認」を買おうとしていないか確認する
「なるべき自分」から降りて、「なりたい自分」を生きるためには、「他人の期待」と「自分の欲求」を区別していく作業が必要になる。
だが、これがけっこう難しい。
たとえば、「自分は思いやりのある人間になりたい」と思っていたとする。
一見すると、これは「自分の本心」のようにも見えるのだが、注意しなければならない。
なぜなら、「なるべき自分」はしばしば「なりたい自分」に自身を偽装して紛れ込んでくることがあるからだ。
たとえ主観的には「思いやりのある人間になりたい」と感じていたとしても、それが本当に「なりたい自分」なのかどうかはまだわからない。
なぜなら、「思いやりのある人になりなさい」と過去に教えられて、それに従っているだけの可能性もあるからだ。
そこで、本当にそれが「なりたい自分」なのかどうかを確かめる必要が出てくる。
そのために、こう自問するのだ。
「思いやりのある人間になることで、『別の何か』を得ようとしていないか?」と。
さっきも書いたように、「なるべき自分」を目指す人は、「他人の期待」に応えることで「愛」や「承認」を得ようとしている。
それは言ってみれば、他人と取引をするようなものだ。
つまり、「こちらは期待に応えるから、代わりに『愛』や『承認』をくれ」と言っているわけだ。
これは、「期待に応える」という代価を支払うことで、「愛」や「承認」を買おうとするようなイメージかもしれない。
だから、「思いやりのある人間になりたい」と思った場合も、それが「他人との取引」になっていないか点検してみることだ。
「思いやりのある人間として生きること」それ自体を求めているのか、それとも、「思いやりのある人間」のように振舞うことで他人から認められたいだけなのか、確認することが重要なのだ。
もしも「他人に対して思いやりを持って接すること」それ自体があなたの心を満たしてくれるなら、それがあなたの「したいこと」だ。
だが、「思いやりのある人間になれば、もっと人から認められて愛される」と思ってそうしているだけなら、「思いやりのある人間になること」はあくまでも「愛」や「承認」を得るための手段に過ぎず、あなたの人生の目的ではない。
あなたはそのように創られておらず、他の生き方が合っているだろう。
もちろん、私たちが何かをするときには、多少の見返りを求める気持ちがあるかもしれない。
だが、そうした気持ちに支配されてしまうと、「自分の心の声」は聞こえなくなってしまう。
「自分は何をするべきなのか?」ではなく、「自分は何をしたいのか?」をこそ、理解する必要があるのだ。
◎「嫌われないこと」はそんなに大事なことだろうか?
そうして、「自分の心の声」に耳を傾け、「何をするべきか」ではなく「何をしたいか」がわかったとする。
すると、次に必要になるのは、「生きたいように生きる勇気」だ。
もしもあなたが自分の人生を生きたいように生きるなら、他人はそれを非難するかもしれない。
あなたが「他人の期待」に応えるよりも「自分の欲求」を満たすのを優先することで、周りの人はあなたに失望するかもしれないし、中には怒りを抱く人もいるだろう。
だから、もし「なりたい自分」がわかったとしても、なかなか次の一歩が踏み出せない人は多い。
そこでは、いわゆる「嫌われる勇気」が必要になるからだ。
「嫌われる勇気」とは言っても、こちらから進んで嫌われに行く必要はない。
それは、「たとえ嫌われたとしても自分は『他人の期待』より『自分の欲求』を優先させる」という決意のことだ。
だが、「他人の期待」に応えることを至上命題にして生きている人は、嫌われることを極度に恐れる傾向がある。
というかそもそも、だからこそ人から嫌われないように「他人の期待」に応えることを選んでいるわけだ。
しかし、どんなに「他人の期待」に応えたとしても、嫌われる時は嫌われる。
こちらを嫌うかどうかは、最終的には相手が決めることであり、私たちにはコントロールすることができない。
また、「他人の期待」に応えることで嫌われることを避けられたとしても、それはしょせん一時的なものだ。
どこかで相手の気が変わるかもしれないし、そもそも相手だってこちらが期待に応えているから嫌わないでいるだけかもしれない。
実際、期待に応えられなくなった途端、あっさりと手の平を返す人も多いものだ。
だから、嫌われないために「他人の期待」に応えている人は、いつ自分が嫌われてしまうか、絶えず怯えていなくてはならなくなる。
「期待に応えることで嫌われない」という状態は、決して永続する安定したものではないのだ。
それに、たとえ「他人の期待」に応え続けても、相手から便利に使われるだけに終わったりする。
「期待に応え続けてくれる存在」というのは、相手からすると使い勝手がよく、利用価値がある。
だから、相手のいいように使われて、自分自身は消耗していってしまうことも多いのだ。
◎「したいこと」をするなら、報酬は常に「前払い」になる
ただ、それでも「他人の期待に応える生き方」にしがみつく人はたくさんいる。
それは、「もしも嫌われたら自分は終わりだ」と思っているからだ。
しかし、もしもあなたが生きたいように生きることで、あなたのことを嫌う人がいるならば、その人のことはもうほっておけばいい。
なぜなら、その人はあなたが「従順な言いなり」で在り続けることを、つまりはあなたが「使い勝手のいい奴隷」として生きることを求めているからだ。
あなたが自分らしく生き始めるならば、遅かれ早かれ、それを応援してくれる人が現れる。
その数が多いか少ないかは問題ではない。
なぜなら、大事なことは、あなたが「自分の心が望むこと」をしているということだからだ。
「愛」や「承認」を求めて「他人の期待」に応える限り、報酬は常に未来に先送りになる。
自分が努力して尽くすことで、後になってから「愛」や「承認」がもらえる(かもしれない)わけだ。
報酬は保証されておらず、しかも常に「後払い」なのだ。
だが、あなたがもし「自分の心が望むこと」をしているなら、報酬は常に「前払い」が保証される。
あなたは「したいこと」をすることによって、あなた自身を満たす。
結果はオマケみたいなもので、行為そのものがあなたの喜びとなるのだ。
そして、そういった「したいこと」の積み重ねが、「なりたい自分」の実現へと繋がっていく。
「したいこと」をすることによって、あなたは自分が「なりたい」と思っていたものへ向かって進んでいくのだ。
もちろん、いきなり「全ての期待」を捨てて、「自分のしたいこと」だけをするのは難しいかもしれない。
重い責任を背負っている人もいるだろうし、生きていくために我慢して嫌な仕事をしなければならない人も多いだろう。
でも、だからといって「これがしたい」という自分の心の声を抑え込まないようにしてほしい。
ほんの少しずつでもいいから、「自分のしたいこと」をする時間を大事にしてほしいと私は思うのだ。
◎まず自分で自分を愛すること
以上、「なりたい自分」と「なるべき自分」との違いについて書いてきた。
「なりたい自分」を目指すなら、人は生きている過程そのものを楽しむことができる。
だが、「なるべき自分」に縛られるなら、他人にひたすら尽くすことで消耗していってしまうだろう。
「なるべき自分」に縛られている人は、「愛」や「承認」は他人からしか得られないと思い込んでいる。
だが、実際には、「愛」も「承認」も自分で自分に与えてあげることのできるものだ。
「こうありたい」という自分自身の想いを尊重し、そこに向かって生きている自分のことを温かく見守ること。
それは、誰かの許可を必要としない、「自分自身の愛し方」なのだ。