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恐怖で逃げ惑わないために

他人から嫌われることに敏感な人は世の中に多い。
かく言う私自身もかつてはそうだった。

「こんなことを言ったら相手は気分を害するかもしれない」
「もしも相手を怒らせてしまったらどうしよう…」

そんな風に思い悩んで、「あんなこと言わなきゃよかった」とか「こんなことするんじゃなかった」と後悔した夜も数えきれないくらいある。

だが、最近はあんまり他人からの評価を気にしなくなった。
もちろん、できることなら嫌われるより好かれたほうが嬉しいが、「多少嫌われることがあったとしても、まあそれはそれで仕方ない」と割り切って考えられるようになった。
それは「嫌われる恐怖」を私が感じにくくなったからだ。

説明してみよう。


◎「嫌われること」を恐れる心理

そもそも、私たちが他人から嫌われるのを恐れるのはなぜなのか?

「他人から嫌われたかもしれない」という疑いが内側に生じた時、嫌われるのを恐れている人は狼狽し、「もうこの世の終わりだ!」という気分になる。
「嫌われる恐怖」は「死の恐怖」に似ていて、実際、主観的には「嫌われることが死ぬほど怖い」と感じるものだ。

誰かから嫌われたところで、別にそれによって私たちの命が尽きるわけではない。
だが、嫌われることを恐れている人は、あたかも、誰かから嫌われたら自分の「命綱」が切れてしまうかのように思い込んでいる。
「嫌われること」と「死ぬこと」が、当人の中ではなぜかリンクしてしまっているのだ。

分析的に見れば、それは幼少期の親子関係に根があるのかもしれない。
たとえば、幼少期に親から見放される経験をした場合、幼い子どもは親から嫌われたら生きていけないのだから、それを「死の恐怖」として感じたはずだ。

それゆえ、親という「命綱」が切れてしまわないよう、当人は親から嫌われないように立ち回ることになり、そのパターンが大人になったからも対人関係において何度も繰り返されることになる。
かつて親から嫌われないことで生き延びようとしたように、大人になってからも、他人から嫌われないことを求めるようになるわけだ。

もしそうだとするならば、もう親の保護がなくても生きていける大人になった後も「嫌われることを恐れる」という反応パターンを繰り返すのは、不合理なことだ。
なぜなら、当人はその時「恐れる必要のないもの」を恐れているわけなのだから。

さっきも書いたが、他人から嫌われても別に死なない。
だが、人によっては嫌われることを死ぬほど怖がる。

私も昔はそうだった。
「嫌われたかも」と思うと、それだけで腰が抜けるほどビクビクしていたものだった。

この恐怖は「死」と結びついているがゆえに本能的なものであり、抗うことが非常に難しい。
頭では「この恐怖は幼少期の親子関係に根を持つもので、今はもう大人なのだから恐れる必要は一切ない」とわかっていたとしても、やはり怖いものは怖いのだ。

◎膨らむ思考には耳を貸さず、ただ身体に降りていくこと

私がしたことは、その恐怖と面と向かうということだった。
たとえば、「嫌われた!どうしよう!」という想いが湧いてきた時には、ジタバタせずにその恐怖の感覚を味わった。
手足が震え、胸が締め付けられたが、それらの身体感覚の中に留まるように努めたのだ。

ただし、頭のほうはなるべく空っぽにするようにした。
嫌われたことについてなるべく考えずに、身体の感覚に意識を向けるようにしたのだ。

そもそも、「嫌われた!」と思った時には、頭の中も大火事になり、次々に思考が湧いてくるものだ。
「あんなことしなければ…」という後悔や、「これからいったいどうしたら…」という不安なども出てくるだろう。

だが、私はそういった頭の中のあれやこれやは全て投げ捨てて、あえて胸の痛みや手足の震えに向かって降りていくようにした。
そうすると、そこにあるのはただの痛みと震えであり、「死」ではないということが次第にわかるようになったのだ。

反対に、頭の中の思考に囚われていると、恐怖はどんどん大きくなっていってしまう。
たとえば、暗闇の中で物音がした時、私たちの恐怖は大きくなる。
「あの音は何だ!?」「誰かいるのか!?」と私たちの頭の中では思考が渦巻き、恐怖心が内側で膨らんでいくのだ。

そこにあるのは暗闇だけであり、「見えない」という意味で感覚的にはただ目を閉じているのとさして変わらないはずなのに、恐怖はどんどん大きくなっていく。
それは、暗闇の中で私たちが多くのことを想像するからだ。
私たちが想像することによって、恐怖は掻き立てられるわけだ。

恐怖を大きくするのは、いつだって私たち自身の想像力だ。
「怖い」と思うことによって、ますます怖くなる。
そうして恐怖に飲み込まれ、前後不覚になってしまうのだ。

だが、恐怖が身体にもたらすものは、胸の痛みと手足の震えくらいのものだ。
それ以上のことは恐怖にはできない。
そして、胸が痛んで手足が震えるだけのことなら、もちろん心地よくはないが、「死ぬほど苦しい」というわけでもないのだ。

だから、もしも恐怖を感じたら、頭の思考には耳を貸さずに、身体の感覚に降りていくことが重要だ。
そこにあるのは胸の痛みと手足の震えだけであり、私たちを破壊するようなものは何もない。

そして、痛みも震えもしばらく感じていれば弱まって消えていってしまう。
そうなってみれば、「いったい自分は何を怖がっていたのだろう?」と我ながら不思議に思うことだろう。

◎冷静に現実と向き合うために必要なこと

ところで、人によっては「頭の声を無視して身体に降りていくことは、恐怖から目を背けることにつながるではないか?」と思うかもしれない。
「身体に降りていくことで恐怖を誤魔化し、逃げているのではないか?」と感じるわけだ。

だが、実際のところは、頭の思考に囚われることによって、人は現実を見誤っている。
そうして、恐れる必要のないものを恐れ、逃げる必要のないものから逃げてしまうのだ。

たとえば、道に落ちているロープを蛇だと思い込んでいたら、人によっては発狂して逃げ惑うかもしれない。
だが、「これはロープだ」とはっきり見据えれば、もう怖がる必要はなくなってしまう。

それは最初からロープだった。
恐れる必要などなかったのに、「蛇だ」と勘違いしていたから逃げ出さなければならなくなったのだ。

私たちは非常に多くのものから逃げようとするが、それはロープを「蛇だ」と勘違いすることによっても起こる。
それはつまり、頭の声に囚われて、自分の目で対象をはっきり見ていないということだ。

「嫌われたらどうしよう」と思って恐れる時も、私たちは相手のことをよく見ていない。
実際には大して嫌われてはいないのに、「嫌われたかもしれない」という自分の中の想像だけで、恐怖心が膨れ上がっていってしまう。
そうして私たちは相手から逃げたり、相手のご機嫌を取ろうとしてへつらったりするようになっていくのだ。

また、もしも誰かから嫌われたとしても、そこにいるのは「一人の人間」に過ぎない。
「相手はこちらのことを嫌っている一人の人間である」ということだけが事実であり、それ以上のことは私たちが付け加えた解釈なのだ。

数十億人も人間が住むこの地球で、一人の人が嫌ってきたからといって、それがいったい何だろう?
「一人の人が嫌っている」という単なる事実を大きくするのも小さくするのも、私たち自身の想像力次第だ。

事実だけを見据えるためには、まず冷静にならないといけない。
そして、冷静であるためには、頭の声に振り回されていてはいけない。

頭の声を去って身体の感覚に降りていくことは、決して「恐怖からの逃げ」などではない。
むしろそれは、恐怖に駆られて逃げ惑うことなく現実と直面するための、確かな手段の一つなのだ。

そうして恐怖を感じるたびに身体に降りていくようにしていると、「恐怖が自分を破壊することはない」とはっきりわかるようになる。
なぜなら、恐怖にできることは、私たちの胸を締め付け、手足を震えさせることだけだからだ。

私たちを破壊するのは、私たち自身の想像力だ。
実際、単なるロープを「蛇だ」と思い込むことによって、私たちは時に自殺までする。
私たちの想像力が、ロープを蛇に仕立て上げるのだ。

もちろん、本当に蛇なんだったら、なるべく早く逃げたほうがいい。
でも、恐怖で曇った目で見ていると、何でも蛇に見えるものだ。

「逃げ回る必要のないもの」から逃げて、人生を浪費してしまってはもったいない。

蛇は蛇と見て、ロープはロープと見切るためにも、常に冷静でありたいものだと思う。