人生を「主体的」に味わうコツ
「受動」と「能動」という言葉がある。
今回は、この二つの言葉から考えることを始めてみたい。
「受動的でいてはいけない、能動的に自分から動いていくべきだ」という意見もあるが、それは本当だろうか?
考えてみよう。
◎「能動的な人」は本当に動かされていないのか?
一般に、「受動的であること」は「自分がないこと」と同義だと考えられている。
「指示を待つばかりで自分から行動しない人」や、「自分で考えず人任せに流される人」のことを「受動的な人間」と呼んだりする。
「指示待ち人間」という言葉が蔑称として使われることがあるように、「受動的な人間」はどこか人として問題があるかのように考えられているのだ。
反対に、「自分から率先して動き、他人に流されないで行動できる人」は、「能動的な人間」と呼ばれる。
彼らは他人の指示を待たず、自分から進んで行動する。
そして、「自分の人生を切り開いていくのはこういった人々であり、いつまでも待っているばかりでは何も解決しない」と多くの人が思っているものだ。
だが、ちょっと立ち止まって考えてみよう。
「能動的であること」は、本当にそれほど「素晴らしいこと」なのだろうか?
一見すると、「能動的な人」は自分を持って行動しているかのように見える。
だが、その内実は必ずしもそうではない。
たとえば、SNSに自分のキラキラした日常を投稿し続けている人がいるとする。
そうした人たちは、外見的には能動的に行動して自分の人生を謳歌しているように見えるだろう。
しかし、実際には彼らはフォロワーの目を気にしており、他人から「なんて充実した生活をしているのだろう」という羨望の眼差しを浴びたい欲求に支配されている。
能動的に自分から行動しているように見えて、その実、他人の目を気にして受動的に情報発信しているわけだ。
また、予定がないことが耐えられず、いつもスケジュールをいっぱいにしている人も世の中にはいる。
彼らは時間を無駄にすることを恐れ、常に有意義に時間を使おうとして何かをし続ける。
その姿は一見すると能動的だが、実際には「何もしないこと」ができなくて動き続けているだけに過ぎないのだ。
◎外見的な「能動」の奥に隠された「受動的な動機」について
こういった人々は、内側に「空虚さ」を抱えている。
自分の人生に「満たされなさ」を感じており、それを埋めようとして必死になっているのだ。
自分の中の「空虚さ」と向き合うことができず、絶えず行動することによって自分が感じている「空虚感」を誤魔化そうとしているのだとも言える。
一見すると能動的で外向的に見える人も、その内実は「空虚さ」に突き動かされた「受動的な人間」であることが多い。
彼らは何もしないでいると、「生の無意味さ」や「自身の無内容さ」を自覚してしまい、苦しくなる。
それゆえ、行動し続けることによって、そこから目を逸らそうとするのだ。
「受動」というのは要するに「動かされる」ということだ。
そういう意味では、「一見すると能動的に見える人たち」もまた、動かされ続けている「受動的な人間」だ。
彼らはある時は「他者の視線」に動かされ、別のある時は「常に意義のあることをしなければ」という強迫観念によって動かされる。
そして、その根本には「自分自身の生の空虚さ」があるのだ。
「自分の人生は空っぽだ」と感じた時、私たちは焦ってそこに何かを詰め込もうとする。
人によっては、出来合いの娯楽やレジャーを詰め込んで「充実した時間」を感じようとするかもしれないし、「誰かと繋がっていたい」という不安から絶えず友人や知人に会いに出かけるようになるかもしれない。
あるいはもっと手っ取り早く、you tubeやスマホゲームに没頭して「退屈な時間」をやり過ごそうとしたり、自分の「満たされなさ」を埋めようとしてジャンクフードを食べまくる人もいるだろう。
彼らは絶えず行動し続け、決して立ち止まることがない。
それはひとえに、「内側の空虚さ」を誤魔化すためだ。
こういった人たちは、何かを自分の中に詰め込み続けないと、自分の人生に耐えることができない。
そこには、絶えざる欲求不満があり、「自分と向き合うこと」への恐れがあるのだ。
◎人が依存症になるカラクリ
私たちが「自分の空虚さ」から逃れようとしてもがく時、私たちはついつい「どうでもいいもの」で自分の内側を埋めようとする。
「空虚さを感じ続けること」があまりにも耐えがたいことであるがゆえに、「自分が本当に求めているもの」ではなくて、手近にあるもので手っ取り早くその「空虚さ」を埋めてしまおうとするのだ。
そこに依存症のカラクリがある。
私たちは「自分の人生の空虚さ」に耐えられなくなると、手近にある「刺激の強いもの」でその「空虚さ」を誤魔化そうとする。
人によっては飲酒によって「自分の空虚さ」を埋めようとするだろうし、ギャンブルにのめりこむことで自分を忘れようとする人もいるだろう。
または、お腹が破裂するまでジャンクフードを食べ続ける人もいれば、毎日起きている時間のほとんどを動画やスマホゲームに費やす人もいる。
だが、それらはあくまでも「空虚さから自分の目を逸らすための手段」に過ぎず、「当人が本当に心から求めているもの」ではない。
要するに「代理満足」なのだ。
「本当に欲しいもの」が手に入らない(あるいは、手に入れる仕方がわからない)がゆえに、仕方なく「他の何か」で自分の心を埋めようとしているだけに過ぎないのだ。
しかし、私たちの心というのは、「どうでもいいもの」で満足するようにはできていない。
「本当に欲するもの」を与えない限り、心というのは決して満ちることがないのだ。
たとえば、親がどれだけ多くのおもちゃを我が子に買い与えたとしても、往々にして、子どもというのは満足しない。
なぜなら、本当に欲しいのは「おもちゃ」ではなく「愛」だからだ。
でも、親は子どものことを見ていない。
目では見ているが、その心を理解していない。
そうして、「子どもが本当に欲しがっているもの」が何かを理解しようともしないまま、親は機械的におもちゃを買い与え続けるのだ。
「どうでもいいもの」によって自分の心を満たそうとする人たちは、こういった「子どもに無関心な親」とよく似ている。
どちらも、自分の心=子どもが「本当に欲しがっているもの」を理解しないまま、手っ取り早く心=子どもを満足させようとするからだ。
その結果、与える物の「量」ばかりがどんどん増えていく。
そこには「本当に欲しいのはこれだ!」という「質」の概念が伴っていないのだ。
「質の悪いもの」で満足しようとするので、当人は「同じ量」では徐々に満足を感じられなくなっていき、どこまでも要求はエスカレートする。
「もっと欲しい、もっともっと欲しい」と渇望し続け、得れば得るほど満足しなくなってしまう。
こうして人は依存症になるのだ。
◎自分自身を満たし「主体的」に生きない限り、人は他人から奪い続ける
「能動的な人」は「自分の内なる空虚さ」を埋めるために行動し続ける。
彼らは止まることができない。
なぜなら、たとえ「どうでもいいもの」であったとしても、自分の中に何かを詰め込み続けなければ、「生きることの虚しさ」が噴き出してきてしまうからだ。
「受動」と「能動」の間には、実際のところ、大差がない。
一見すると能動的に見える人も、その根っこを辿って行ってみると、結局は「内側の空虚感」に突き動かされているだけに過ぎないからだ。
ここで大事なことは、「受動」「能動」という枠組みを超えて、「主体的」になることだろう。
「主体的になる」というのは、「自分が本当に欲することをする」という意味だ。
「どうでもいいもの」で自分の心を埋めようとするのではなく、本当に深く自分を満たしてあげることが大事なのだ。
「受動的な人」はもちろん、「一見すると能動的な人」も「主体」が欠如している。
「自分自身」が不在なのだ。
そして、だからこそ、まわりによって動かされるのだ。
「自分自身」が不在なのは、どうすれば自分を満たせるかわからないからだ。
そして、不満足であるがゆえに、いつも他人に何かを求める。
施しをする時でさえ物欲しげで、常に見返りを求めてはケチ臭く与える。
私たちは深く自分自身を満たした後にしか、他人に気前よく何かを与えることはできない。
自分自身が満ちていないと、他人に与える時でさえ、私たちは相手から何かを奪っていく。
自分ではそういうつもりがなくても、「これこれを与えてあげるから、代わりに『愛』や『承認』をよこせ」と無意識に要求してしまうのだ。
そして、相手はそれを敏感に察知する。
「この人は与えているようで実際には奪っていっている」ということが相手にはちゃんとわかるのだ。
しかし、外見的には与えているように見えるので、その気持ちは無視しにくい。
悪意を持って奪っていくなら拒否しやすいが、善意を装って奪っていくから、なおさらたちが悪いのだ。
◎自分を満たそうと思うなら、機械的であってはならない
自分自身を本当に満たさない限り、こうした「奪うこと」は続いていく。
そして、「どうでもいいもの」で心を埋めようとする限り、外側の世界に「受動的」に動かされ続ける。
では、どうしたら自分を満たすことができるのだろう?
そのコツの一つは、機械的におこなうのをやめることだ。
私たちは機械的におこなうことに慣れており、自覚的に味わうことに慣れていない。
私たちは機械的にテレビを見続け、機械手にスマホをいじり、機械的に食物を胃に詰め込み、機械的に人の話に相槌を打つ。
そうして私たちは満足しない。
たとえどれだけテレビを見ても、どれだけスマホを使っても、たとえお腹いっぱいになるまで食べても、どんなに人と会って会話をしても、私たちは「満ち足りた」とは感じないのだ。
その現状を変えるカギは、機械的におこなうことをやめ、もっと自覚的に味わうということだ。
別に「すること」そのものを変える必要はない。
テレビを見たい人はテレビを見たらいいし、スマホを使いたいなら使えばいい。
ただし、無自覚にはやらないようにする。
機械的にダラダラとするのではなく、意識的に味わってそれをするのだ。
たとえば、テレビを見ることを深く味わおうと思ったら、自然と「つまらない番組」は見たいと思わなくなるだろう。
面白い番組を探すようになり、それを本当に楽しみながら見るようになっていくはずだ。
また、いつもジャンクフードで空腹を誤魔化していた人は、食べることを味わうことによって、「ジャンクフードでは満足できない」ということに自然と気づくだろう。
ジャンクフードはお腹こそ満たしてはくれるが、心を満たしてはくれない。
一口一口よく噛み、深く味わえば味わうほどに、それがわかる。
結果として、おそらくその人は自分で調理をし始めるようになるだろう。
料理を作ることは本人にとって楽しみになり、食事は喜びになっていく。
もしも食事を深く味わうならば、きっとそうなる。
自分を満たすために「特別なこと」をする必要はない。
ただ「意識の使い方」を変えればいいだけだ。
決して機械的にやらず、何でも自覚的に味わうようにする。
そうすれば、何でもない日々の生活が、そのまま満足に溢れたものになっていくのだ。
◎「生きるに値する」と思える人生
このように、「受動」と「能動」に違いはなく、どちらも「内なる空虚さ」に動かされているという点では、両者は同じものだ。
そこから抜け出るためには、自分を深く満たす必要がある。
また、自分を満たすことができなければ、誰にも自分のものを与えることはできない。
表面的には与えるふりをしながら、その実、何かを奪っていく。
そして、「動かされ続けること」や「他人から何かを奪うこと」をやめるためには、「自覚的に日々を味わうこと」が必要だ。
「自覚的に味わうこと」によって、何でもない日常の中に「確かな満足」が見つかるようになるだろう。
そうして初めて、私たちは誰かや何かに動かされるのではなく、真に自分から「主体的」に動いていくことができるようになり、他人から奪うことなく、気前よく分け与えることができるようになっていく。
自分自身の心を満たすだけでなく、他人のことも満たすことができる人生を送れるようになっていくのだ。
それに対して、「機械的におこなう」ということは、「何も感じないまま繰り返す」ということだ。
それは私たちに与えられた一度きりの人生を、しっかり味わわないまま捨ててしまうことに等しい。
そして、それは非常にもったいないことだと私は思う。
もっと人生を味わおう。
そこには様々な「味」がある。
もし本当に深く味わうなら、日々の生活はそのままでも、私たちはそこに満足を見出す。
それは「意味深い人生」であり、「生きるに値する人生」なのだ。