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アルマジロ

 新幹線に、初めてひとりで乗った。窓際の座席を予約しておいたら、すでに通路側の席には人が座っていた。スーツ姿の男性だ。出張だろうか。
 すみません、すみません、あやまりながら窓際の席に滑り込む。
 別に悪いことをしているわけじゃないのに、なぜ人は、すぐに謝るのだろう。
 いつもなら、出かけるときは勇介がいっしょだ。旅行先を決めるのも、新幹線や飛行機やホテルの予約をするのも、勇介だ。私は勇介のあとをついていくだけ。それで充分満足だった。
 でも今日は違う。
 京都駅。新幹線は減速しながらホームに滑り込み、車両を揺らして止まった。降りる人は思ったほど多くない。観光客なら、きっともっと早い時刻にやってきて、ここでの時間を目一杯使うのだろう。
 勇介が出張に使っているキャスターバッグを借りてきた。引きずりながら歩くのにコツがいる。後ろの人にぶつけないように、気をつけながら歩いていたら、すっかり疲れてしまった。目的地までは、まだ遠そうなのに。
 広い京都駅の構内で、乗り換え場所を見つけるのに手間取った。バスに乗るか、地下鉄に乗るか。路線図を見ても、複雑でよくわからない。スマホを片手に調べながら、キャスターバッグを引いて歩く。地下鉄に乗ったほうが良さそうだ。便利な時代でよかった。
 エスカレーターをいくつか乗り継いで、京都駅の地下街へ降りる。地下鉄の乗り場はすぐに見つかった。切符売り場の路線図を確認したら、この先、さらに何度か乗り換えが必要そうだ。
 京都の地下鉄では、東京で使っているSuicaがそのまま使えた。バスでも使えるらしい。関東圏だけかとおもっていたら、いつのまにか全国共通だった。それぞれ地域ごとのカードはあるらしいのだが、それ以外でも使えるようだった。
 世の中、知らないことだらけだ。
 最初からタクシーに乗ってしまえばよかった。そう気がついたのは、地下鉄に乗り込んでからだった。

 電話があったのは、一週間前のことだ。
 仕事中にスマホがふるえた。表示されているのは、知らない番号だった。
 部長と課長が一斉に、睨むようにこちらを見る。すみません、すみません、そんな雰囲気を全身で出しながら頭をさげて、スマホを持ってエレベーターホールへ出る。
「はい。はい? 父ですか? ちょっとわからないんですが。え? は?」
 電話は、知らない女性からだった。
 知らない女性が、私の父が死んだと言っている。
 何をどう考えたらいいのか、わからなくなる。頭が真っ白になるとよく言うが、例えるなら、ブラックアウトしたディスプレイだった。
 遠くから、上司が私の名前を呼ぶ声が聞こえる。ここが会社だったことを思い出した。
 父が死んだ。
 もう何年も会っていない父だ。
「ご遺骨をどうしたものかと」
 電話の向こうで、関西のイントネーションで話す知らない女性が、父の骨がどうとか言っている。
 父はもう、骨になっているらしい。
 そういえば、父はどんな顔をしていただろうか。骨になってしまったら、もう確認のしようがない。
「わかりました。一度、そちらへ伺います。場所はどちらですか?」
 電話の声は、京都です、と言った。
 行方不明の父は、京都で死んでいた。
 電話の声は、京都の出町柳という場所へ来て欲しいと言う。どうやらそこは、父が暮らしていた街らしい。

 父とはもう二十年、会っていなかった。母が亡くなって、あれはたしか四十九日の法要が終わったころ、ふらっと家を出て、それきり戻らなかった。
 いなくなった父を探そうと、勤め先や友人に連絡を取ってみたけれど、誰も詳しいことは知らなかった。長く勤めていた会社には、退職届が出されていて、それなりの退職金を受け取っていた。亡くなった母の生命保険と自分の退職金を持って、父は姿を消した。
 私には、何の相談もしてくれなかった。

 京都駅から地下鉄を乗り継いで、出町柳駅へ着いた。地下の改札を抜けて、地上へ出ると川と緑が見えた。
 出町柳は、高野川と賀茂川が交わって、鴨川になる場所だ。
 世界遺産の下鴨神社にほど近い。京都中心部の都会的なビル群や、観光地の持つ華やかさとは違った、庶民的な街らしい。そうガイドブックに書かれていた。
 キャスターバッグを転がしながら、商店街の一画にある不動産屋まで歩いた。
 電話の声が私に来るように指定したのは、不動産屋だった。吉村不動産という店だ。
 父が亡くなったと連絡をくれたのは、京都にある不動産屋だった。父は京都に住み、カフェを営んでいたという。父とカフェ。父と京都。どちらも結びつかない。たしかにコーヒーは好きだったかもしれない。京都も一度や二度は、観光したことがあったかもしれない。でも、その程度のことだ。
 不動産屋の話によると、父は突然倒れ、そのまま意識が戻らなかったという。脳溢血のたぐいだろう。家族はいないと聞いていたそうで、カフェの常連など有志で葬式を出してくれていた。所持品や遺骨をどうしようかと困っていたところだったらしい。不動産屋が父の住まいに入り、残された荷物を確認したときに、冷蔵庫に貼られた古いメモを見つけた。「娘」という文字と、携帯電話の番号が書かれていたそうだ。娘がいたなんて聞いたことがなかったから、半信半疑で電話をかけてみたらしい。不動産屋にしてみれば、父からは聞いたことのない、いないはずの家族だから、最初の電話のときには、本当に娘さんですかと、何度も確認された。
 父は、私をいなかったことにしたらしい。
 私の携帯電話番号は、ずっと変えていなかった。父と私が、唯一つながっていた情報だった。

 通りに面した木枠のガラス戸に、物件情報のチラシが貼られている。チラシのすき間から店内のようすをうかがう。店内の壁にも同じように、物件情報がごちゃごちゃと貼られている。その中央に、恰幅のよい、大阪のおばちゃん風の派手な中年女性がすわっていた。
 しまった。目があった。
「あらー、いらっしゃいませ。どうぞおかけください」
 女性は、がらがらとガラス戸をあけ、私を中に引き入れた。
「あの、わたし」
 言いかけた言葉を遮るように、女性がまくしたてる。
「まずは場所ね。あとお住まいになる人数。それでだいたいの目安にしますので」
「あの、違うんです」
「あら、もうめぼしがついてますの?」
「そうじゃなくて。えっと。井田です。私。お電話いただいた、井田勝の娘です」
 女性は、太い指の大きな手とたくましい腕をひろげて、私に抱きついてきた。ぎゅうぎゅうと強く抱きしめてきた。
「ほんとうにもう。大変だったのよ。会わせてあげたかったわ。勝ちゃんに。来てくれてよかった」
 むせかえりそうなほど、懐かしい化粧品の匂いがした。息が苦しい。
 でも、あたたかかった。こんなふうに抱きしめられたのは、久しぶりだ。
 女性は、吉村さんといった。父にカフェの物件を世話し、カフェの常連として付き合いがあったそうだ。

 父がやっていたというカフェは、不動産屋のとなりにあった。古い木造の建物で、ドアも窓枠も木材が使われている。大きな地震でもあったら崩れ落ちそうなボロ屋敷だ。
 入り口らしきドアに、単行本くらいの大きさの、木の看板がついていた。「カフェ・アルマジロ」と、下手な字で書かれている。
 どうぞと吉村さんに案内され、ドアに手をかけた。力を入れて引く。ギギギーっとひっかかるような音を立て、古い木製の大きなドアが動いた。半分ほどあけて、体を滑り込ませる。
 店のなかは、古びたコーヒーの香りに満ちていた。深煎りの重たい沈んだ香りだ。
 コーヒーを淹れる道具が並んだカウンターと、テーブル席が少し。
 主を失ったテーブルにそっと指で触れると、ほこりが積もり始めていた。
 カウンターの隅に置かれた小さなレジのうえには、手のひらサイズのアルマジロのぬいぐるみが置かれていた。どこかで見たことがあるような気がするが、思い出せない。
「そのままにしてあるのよ」
 吉村さんがテーブルをなでながら言う。
「ここに、本当に父がいたんですか?」
 想像ができない。ここに父が立って、お客を相手にコーヒーを淹れている姿が、どうやっても想像できない。
「本当に何も知らないのね。何から話したらいいのかしらね」
 私の知らない父の暮らしを、私の知らない女性から聞くことになるなんて。
「父とはもう二十年、音信不通で」
「それじゃここに来てからずっとだわ。ここを勝ちゃんに売ったのが二十年前」
 二十年。知らない暮らしが二十年もあったら、もう別人だ。
「父は、二十年ずっとここでカフェをしていたんですか?」
「そう。近所の人とかね、このあたりに住む人たちの憩いの場所で。そのまんなかにいつも勝ちゃんがいたの」
 勝ちゃんって、誰だ。父のことをそんな風に呼ぶ人は初めてだ。
「父は出て行ったんです。突然に。私に何も言わずに。二十年前、母の納骨が終わってすぐでした」
 強い口調になってしまった。吉村さんが私の顔をのぞき込んだ。
「憎んでるの? お父さんのこと」
「わからないです。でも」
 わからない。どんな感情を抱いたらいいんだろう。二十年という時間の長さは、様々な感覚を麻痺させる。
「あなたのお父さんは、誰も知らない場所へひとりで来て、ゼロからこのお店をはじめたの。勝ちゃんは偉かったのよ」
 吉村さんの放った、偉かった、という言葉が胸にグッと刺さった。
「勝手に自由になっただけでしょ」
 胸に刺さった言葉を抜く。
「勝ちゃんには、きっと自由になる必要があったのよ」
 母が死んで、父は、ここで新しい生活を手に入れて、本当に自由になっていたのか。
「父は死んだんだって思ってきました。本当に死んで、二回死んだみたい」
 吉村さんが、潤んだ目で私を見る。きっと責められている。
「勝ちゃんはここで生きていましたよ。確かにここで」
 この人に何を言ったらいいのか、もうわからない。父の後始末をして、痕跡を消し去って、一日も早く、私は私の生活に戻りたい。
「父はここに住んでいたんですか?」
 住まいを片付けて、このお店を片付けて、ほかにも何かあるだろうか。
 吉村さんは、天井を指さした。
「ええ。二階が住まいになってるの。勝ちゃんのお骨も二階に」
 お骨のこと、すっかり忘れてた。ここへ来た目的は、お骨を持って帰ることだった。
「お骨は持って帰ります。母のお墓があるので。そこにいっしょに納骨します」
 お母さんが、ずっと待ってるよ。
「ここはどうするの? 勝ちゃんの所有なの。お店と自宅。不動産の相続になると思うんだけど」
 所有。不動産。相続。話しがややこしくなってくる。
「借りていたんじゃないんですか?」
「いいえ。お買いになったんです。相続の手続きとか、必要に」
「困ります。売ってください」
「お売りになるとしても、あなたのものになってから。やっぱり手続きは必要になりますね」
 吉村さんは、近所の世話好きなおばちゃんであり、きちんと不動産屋さんだった。この先の手続きなど、頼ることになるのだろう。
「わかりました。とりあえず今回はお骨を持って帰って、手続きなどにまた来ます」
 吉村さんは、太い指の手で、ゆっくりとカウンターをなでた。
「ここがなくなってしまったらさみしくなるわ。このお店が好きな人、ご近所にたくさんいるのよ。心の拠り所っていうか。ここでほっとしてコーヒーを飲みたい人がたくさんいるの」
 父はここで何をしてたんだろう。父が誰かの心の拠り所になっていたなんて、まだ信じられない。
「誰かにお店をやってもらうとか?」
「あなたは? 勝ちゃんの娘さんなら、きっとみんなまたここに集まるわ」
 この人は何を言っているんだろう。私がここでカフェをする?
「無理です。そんなのありえないです」
 ありえない。
 そんなのありえない。
 でも、吉村さんはうれしそうだった。名案を思いついたとでも言いたげだ。
「でも、ちょっと考えてみて。道具はすべてそろっているわけだし。必要なのはここでコーヒーをいれてくれる主だけだから」
 その主が問題なのに。主になんてなれないのに。

 東京の自宅へ戻ったのは、翌日だった。勇介へのおみやげは、八つ橋を買った。確か、好きだと言っていた。
「もう何がなんだかわかんないよ。お骨に、カフェに、相続とか、お店やれとか、いきなり初対面のおばちゃんに言われてさ」
 勇介は、ソファに埋もれるように座りながら、八つ橋の箱を開けている。
「お父さん、知ってる人を頼って京都へ行ったとかじゃないんだろ? いきなり京都へ行って、カフェをやって、近所の人たちに必要とされて、なんだかすごいな」
 抹茶色の八つ橋が、ひとつ、ふたつと、勇介の口のなかへ入っていく。
「すごいっていうかさ。もう、それだれのこと? って感じ。お父さんってどんな人だったか、よくわかんないの。覚えてないの。ただ仕事に行って、帰ってきて、また仕事に行ってみたいな姿しか思い出せないんだよね。何か話したとか、相談したりとか、したこともないと思う」
 先にお茶を淹れればよかった。お茶菓子が終わってしまう。勇介は八つ橋を次々と口に入れた。舞子さんのイラストが描かれた八つ橋の箱は、まもなく空になる。
「父親と娘って、みんなそんな感じじゃないの? 娘と母親が女同士でくっついてて、父親を攻撃するみたいな構図じゃない」
 勇介の指には、八つ橋についていた肉桂の粉がべっとりとついていた。勇介の目が、指を拭うもの、ティッシュか何かを探して、少しだけテーブルのまわりを見まわす。そのあとで、あきらめたように指を口に入れた。
 汚いなぁ。あわてて、テレビの前に置かれたティッシュを取りに行った。勇介に箱ごと渡す。
「女の子特有の、ほら、パパ臭い! あっちいって! みたいのもなかった。嫌うほどの関係もなかったんだと思うんだよね。なんか、存在感がなかった」
 ただ同じ家に住んでいた。それだけの記憶が残っている唯一の感覚だ。
「さみしいな。ひとり娘に、いない人扱いされたらさ。俺の働いた金で大学まで出してやったんだ、みたいなことを言われても、おかしくないのにさ」
 古風な発想に、少し驚いた。勇介ってそういうこと考えるんだ。
「もしも父親がそんなこと言い出したら、完全にひくわ。そういう偉そうなのが、パパ臭い、みたいな反応につながるんじゃない?」
 勇介が大きなため息をついた。
「存在感ないくらいなら、臭いって言われたほうがマシだよ」
 ふざけた話しのつもりだったのに、勇介はいつのまにか深刻な顔をしている。
「どっちにしてもさみしいじゃない」
 父親なんて、そんなものだ。
「父親っていうのはさ、さみしい生き物なのかもしれないよ」
 わかったようなこと、言わないで。
「父親でもないのに」
「父親になりたかったよ」
 勇介が? 父親に?
「なに言ってんの?」
「言っちゃったよ」
「言っちゃったって、今まで言えなかったってこと?」
「ごめん」
 あやまるなんて、ありえない。
「ちょっと待ってよ。本気なの?」
「ごめん」
 だから、ありえないから。
「結婚するときに話し合ったよね? 子どもはつくらないって。もう二十年も経ってるじゃん。気が変わったってこと? もう無理だよ。私おばさんだし」
「ごめん」
 別に悪いことをしているわけじゃないのに、なぜ人は、すぐに謝るのだろう。
「勇介、子ども好きじゃない、って言ったよね?」
「本当にごめん」
「もう。ごめんじゃわかんないよ」

 次に新幹線に乗るのは、勇介もいっしょだと思っていた。残念ながら、今回もひとり旅になった。目的地はふたたび京都だ。
 車窓は流れる。ビルも、家も、工場も、山も、森も、川も、現れてはすぐに流れて消えてゆく。
 トンネルの暗闇で、窓ガラスに自分の顔が映って、消える。自分の存在が、暗闇にだけある。目があう。
 窓ガラスに映るあなたは、この先、どうしたいと思っているのだろう。
 暗闇が、子どもの頃の記憶を引き出し始めた。あれは5歳くらいだったか。一度だけ、父とふたりで動物園に行ったことがあった。ゾウとかキリンとか、大型の動物が人気だったけれど、怖くて柵に近寄れなかった。唯一、小動物館には友だちになれそうな動物がいた。薄暗い通路を通って、ガラス張りのケージの前に立ったら、なかに甲羅に覆われた大きなネズミみたいな動物がいた。ケージに敷き詰められたおが屑を撒き散らしながら、ちょこちょこと動き回っている。絵本でも、図鑑でも、目にしたことがなかった。夢中になって見ていたら、父が言った。
「おもしろい動物に気がついたな。アルマジロっていうんだ。これは丸くなるタイプだな。なれないやつもいる。どっちも鎧を着てるんだ。自分から戦わなくても、強いんだよ。でも、ずっと鎧を着ているのは大変そうだね。たまにはゆっくり休ませてあげたいな」
 帰りに、動物園の売店で、小さなアルマジロのぬいぐるみを買ってくれた。鎧の部分もふわふわで、強そうには見えなかった。でも、そこがよかった。
 あのカフェにあったのは、父が私に買ってくれたぬいぐるみだった。すっかり忘れていた。どこに行ったのか、考えもしなかった。ふわふわの鎧を着たアルマジロは、父と一緒にカフェをやっていたのだ。

 あのあと勇介は、
「ごめん。もう無理」
 そう言い残して、家を出た。出張用のスーツケースに、簡単に身のまわりのものだけを詰め込んで。
 勇介は、会社近くのビジネスホテルに落ち着いたらしい。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。うまくいっていると思っていたのに。そう思っていたのは、私だけだったのか。
 いっしょに眠らなくなって、もう何年も経っていた。そんなことも、理由のひとつなのかもしれない。
 勇介は、きっと言いたいことの少しも私に言えずに、ずっと暮らしていたのだ。笑いあって話していたことのすべては、うそだったのだ。
 マンションのローンは、勇介が支払っている。残り十数年。勇介の定年まで続く。そんな家に、勇介を追い出して、私が自宅に残るわけにはいかない。
 会社では、何度か顔をあわせた。勇介は目をそらして足早に去った。別居していることは、すぐに噂になって、上司に呼ばれた。
 きちんと話し合わないうちに、社内のメール便で離婚届が届いた。
 京都へ行けよ。そうメモ書きされた付箋紙が貼られていた。
 退職届を出したのは、そのあとすぐだ。せめて社交辞令でも引き留めてくれるかと思ったけれど、上司はすんなり受理して、退職に関する手続きの書類の束を持ってきた。まるで準備してあったかのような早さだった。
 私は、ここには必要のない人だった。

 ひとりで二度目の京都。
 もう来ないつもりだったのに。二度と来たくない場所が、残されたたったひとつの行き場所になるなんて、皮肉にもほどがある。
 父の遺したカフェをやってみる。それしか、今の私には選択肢がなかった。
 一度目と同じように、吉村さんの不動産屋に寄る。父の荷物を片付けに行きますと電話を入れておいた。
 吉村さんは、とても親しい友人が訪ねてきたかのように、迎え入れてくれた。
 会うのは二回目なのに、ずっと昔から世話になってきたような気持ちになる。
 この人を頼って、本当にいいのだろうか。
 この人を頼っていた父を、本当に信じていいのだろうか。
 でも、もうほかに行き場はないのだ。
 吉村さんにカフェの鍵をあけてもらった。そしてその鍵を、そのまま私に手渡した。
「あなたが持っていて。いつでも開けられるように。あなたの家ですもの」
 見透かされているような気がする。
 きっと顔に書いてあるのだろう。
 渡された鍵をぎゅっと握る。
「実は。カフェ、やってみようかと思うんです」
「本当に? 考えてくれるなんて思ってもみなかったわ。もちろんそうだったらいいのに、って思ったのは本当よ。お願いしてみるもんね。うれしいわ」
 吉村さんが、最初に会ったときのように、ぎゅうぎゅうと私を抱きしめる。
「わ、私に、で、できるんでしょうか」
 どうにか声をしぼりだす。
「勝ちゃんだって、始めは手探りだったし、どうにかなるわよ」
「実は、いろいろあって。住むところがなくなりそうなんです」
 私を抱きしめていた吉村さんの腕から、急に力が抜けた。大きな両手が私の両肩をつかむ。
「ご結婚されてたわよね?」
 吉村さんは、驚いた気持ちを精一杯隠しながら、遠慮がちに聞く。
「はい。そっちの問題で。想定外なんですけど」
 私にとっては想定外だった。でも、勇介にとっては想定の範囲だったんだろうか。
「それなら、こんな言い方よくないかもしれないけど、好都合じゃない。私にとっても、あなたにとっても。ここに住めばいいし、仕事もできる。すぐにでもこっちに引っ越してらっしゃいよ」
 好都合。きつい言葉だけれど、つかむしかない、都合。
「本当にそれでいいのか、わからなくて」
 わからない。その言葉がいまのすべてで、吐き出すように涙があふれる。
 ここで泣いちゃうんだ、私。
 何を選んでも、選ばなくても、決めなくちゃいけない。
「ここはあなたの家なのよ。ここはあなたのお店なの。ここに来れば、すべきことがあるじゃないの。あなたはここに必要な人なのよ」
 吉村さんの腕に、ふたたび力が入る。ぎゅっと私の肩を抱いた。
 母が生きていたら、こんな感じだっただろうか。いや、母はこんな風に、感情を体で表現できるタイプじゃなかった。
「大丈夫よ。あなたのお父さんが、ちゃんとあなたの居場所を作っておいてくれたんだから」
 吉村さんも、いっしょに泣いている。 
 もうずっと会っていない父が、もう二度と会えない父が、きっとここでこれからの私を助けてくれる。
 私と父は、ここから始まる。
 ふわふわのアルマジロと一緒に。

                       おわり

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