ブルートパーズ
小学校五年生の夏、箱根へ林間学校に行った。
クラスごとに7台。連なった観光バスが、木々の緑がまぶしい山道を登っていた。バスは、繰り返し続くカーブに右に左にと揺られながら、標高をあげていく。
バスのなかでは、レク係がクイズを出題して盛りあげていた。クイズの問題は、箱根八里の歌詞にまつわるものだった。箱根の山は天下の剣、だ。正解のわかった子どもたちが一斉に手をあげて、大きな声で歌いながら答える。事前学習で何度もこの歌の練習をしていた。
私もいっしょに、大きな声で箱根八里を歌うつもりだった。
でも、バスの最前列で先生の隣に座り、背中をさすられながら青い顔をしていた。
箱根の山は天下の剣。天下の剣ってどういう意味だろう。あのときは、そんなことを考える余裕もなかった。
バスで山道を揺られるのは、初めての経験だった。最初のころはまだよかった。カーブがひとつ、ふたつ、みっつと続くにつれ、頭がぎゅっと痛みだし、目の前の景色が薄れだし、のどの奥のほうで何かがうごめいた。
「シホちゃん、顔が青いよ。大丈夫?」
となりに座っていたエミちゃんの声が、となりの座席とは思えないほど遠くから聞こえた。
バスは、やっと目的地の大涌谷に着いた。やっとだったのは、バスではなく私だ。先生に抱えられるようにしてバスから降りた。
ここからが林間学校のメインイベントで、大涌谷、箱根駒ヶ岳間のハイキングコースを歩く予定になっていた。木々がトンネルのようになった道の木漏れ日のあいだを列をなして歩き、お昼には山頂でお弁当を食べる計画だった。
もちろん、私は山道を歩けるような状態ではない。大涌谷にただよう硫黄の匂いも鼻につく。息が苦しい。しばらくベンチで休んだあと、保健室の先生といっしょに、タクシーに乗った。ハイキングコースのゴールへ先まわりして、歩いてくる友だちを待った。彼らのゴールは、箱根駒ヶ岳のロープーウェイ乗り場だった。
その日の朝早く、祖母が握ってくれたおにぎりは、結局食べられなかった。夕食のときにはきっと食べられると思ったが、痛んでしまうからダメだと先生は言った。アルミ箔に包まれたおにぎりを、先生に促されて、ロープーウェイ乗り場のごみ箱へ捨てた。
ごめんなさい、ごめんなさいって、泣きながら、ごみ箱のうえで手を離した。
食べられなかったおにぎりのことを、祖母は仕方ないとなぐさめてくれた。母は無駄なことをしたとなじった。
バスでに酔ったのはそれが初めてで、それからずっとだ。
バスが苦手だ。苦手というより、苦手、くらいでは済まない。体が拒否する。振動も音も匂いも。
バスのすべてが、あの林間学校での記憶につながる。箱根の山道でバスに酔って、泣きながらおにぎりを捨てたところまで、セットで。
だから、バスにはできるだけ近寄らないようにしている。観光バスだけでなく、路線バスにも乗らない。実家は最寄り駅から二十分ほどバスに乗ったところにあるが、一時間以上かけて歩くことにしている。
高校を卒業後、遠い大学を選んで進学し、実家から離れた。実家は、電車の駅から遠すぎる。毎日、一時間以上歩くのは時間の無駄だ。バスに乗りたくないのはもちろんだが、実家を出た理由は、それだけではなかった。
ひとり暮らしの住まいは、大学の近くを選んだ。最寄り駅までも歩いて十分ほどだ。
ワンルームにロフト付き。実家の自分の部屋よりも狭いけれど、手に入れた我が城の気分で住んでいる。就職には失敗したので、そのまま、いまも大学の近くに住んでいる。もう何度契約を更新しただろうか。
自宅から歩いて五分ほどのところにあるコンビニのバイトを、学生のころのまま続けている。勤務時間が深夜だけでなく、日中も加わったくらいの変化だ。生活圏は自宅とコンビニと、たまに駅。こじんまりと暮らせている。
バスに乗らずに生活できる、いまの暮らしは快適だけれど、狭いなかで、ひとりでいられるのはいつまでだろう。
ときおり不安に思うこともある。孤独死とかするんだろうか。誰にも発見されない自信はある。
そんな生活のなかでも、避け続けても、どうしてもバスに乗らなければならないような用事が、時折やってくる。道がわからないとか、荷物が多いとか、理由はざまざまだ。
バス停で待っているときから、過度の緊張が始まる。このまま一生、バスがやってこなければいいのにと思う。バスに乗るよりも、待っているほうがずっといい。
それでもやってきてしまったバスに、さらに緊張しながら乗り込む。じわじわと手足が冷たくなる。呼吸が荒くなる。深呼吸を続けるけれど、バスの匂いを余計に吸い込んでしまってさらに気分が悪くなる。顔から血の気が引いて、青ざめていくのがわかる。
ひどいときには、乗ってすぐ、次のバス停でもう降りて、ひと休みする。もう一度乗って、また降りてを繰り返して、どうにか目的地に着いたりもする。
頭の中では、ずっと祖母のおにぎりをごみ箱に捨てたシーンが繰り返される。
その日は、拷問にあう覚悟を決めて、バスに乗った。実家へ、母に頼まれたスーツケースを持っていかなければならなかった。キャスターのついた大きな箱を転がしながら、一時間の道のりを歩くのは不可能で、しかたなしにバスを選んだ。
スーツケースは、大学の卒業旅行のときに買って使って、それ以来ロフトにしまってあった。急に母が使うと言い出した。もったいないから持ってきなさいと言う。勝手だ。
冷静に考えてみれば、宅配便で送るとか、タクシーに乗るとか、別の方法があっただろう。バイト先のコンビニから送ればいいだけのことだった。
それなのにバスを選んでしまった。バスに乗られなければ、という思い込みだ。バスに乗りなさいと、母が強く言ったのだ。
時間は、平日のお昼すぎ。駅から病院を経由して、住宅街へ走るバスは、いつも混雑している。買い物帰りの主婦、通院の高齢者、学校をさぼった高校生。空を見上げれば、雨が降ってきそうな雲行きだったから、なおさら人々の足はバスへと向かった。
混雑しているバスのなかで、大きなスーツケースはほかの乗客の邪魔になる。後方の、座席の前に少しスペースのある席に座った。スーツケースが転がらないように足で押さえて踏ん張る。
スーツケースみたいな大きな荷物を抱えていたら、気分が悪くなったからといって頻繁に乗り降りするわけにはいかない。自分につけた足かせみたいだ。
緊張と気持ち悪さと戦いながら、いくつかバス停をすぎていった。
何か考えるとさらに具合が悪くなるから、できるだけ無の境地だ。
私は何も考えていません。そう考え続けている。
バスは、駅を中心として開けた商業地域を抜け、住宅街へと向う。途中、病院のバス停にとまった。
湘南なぎさ中央病院。この地域でもっとも大規模で、設備が整っていて、地域住民から頼りにされている病院だ。風邪以外の病気になれば、みんながここにやってくる。
祖母も、父も、ここで検査をして、入院して、手術して、闘病して、亡くなった。
病院の巨大な建物の前に、バスターミナルがある。サルスベリが等間隔に何本も植えられた前庭をぐるっと周回しながら、バスが入っていく。周辺の駅からいくつかの路線が乗り入れているので、バス停が3つある。そのひとつに止まった。
無の境地を貫いていた顔をあげて、大きく息を吐く。
窓の外に目をやると、バス停のベンチに祖母が座っていた。
五年前に、この病院で亡くなった祖母だ。
バスに酔っていると、幻覚を見ることもあるんだなぁと、ぼんやりした頭で考えた。
念のため、もう一度、目をこらしてベンチを見る。
祖母と目が合った。
手をふっている。
祖母だ。
祖母だ!
あわてて立ち上がり、スーツケースを引きずり、降りる人の波に交わる。
すみません。すみません。あやまりながら人をかき分けバスから降りた。
「チイちゃん」
バスのなかから見たときと同じように、ベンチに座っていた。やっぱり祖母だった。
祖母の名前はチエコという。チイちゃん、そう幼い頃から呼んできた。
「シホちゃん、待っていたのよ。会えてよかったわ」
チイちゃん、いったい何を言ってるんだ。
「チイちゃん、どうしてここに。私を待っていたってどういうこと」
チイちゃんは、にこにこしながら私を見ている。笑うと細い目がますます細くなる。どこからどう見ても、ここにいるのはチイちゃんなのだ。
「ちょっと探して欲しいものがあって。シホちゃんにお願いしようと思って」
理由になっていない。どうしての答えを聞きたかったのに、いきなりのお願いをしてきた。
目的があったから、化けて出て来たということなんだろうか。やり残したこととか、思いとか。
幽霊だったら恨みだろうか。幽霊のお決まりで、うらめしや、とか言うのだろうか。
チイちゃんが幽霊だと思ったら、背筋に寒いものが走った。それでも会えたのはうれしかった。チイちゃんと話しができるなんて、もう絶対に無理だと思っていたのに。
「シホちゃん、青い石の指輪を探して欲しいの。大切なものなの。私の目印なの。家にあるはずよ。自分で探しに行こうかと思ったのだけれど、どうやらここから動けないみたいなの」
この場所は、チイちゃんが亡くなった病院のバス停だ。チイちゃんは、病院の地縛霊にでもなってしまったのだろうか。
「ねぇ、シホちゃん。お願いよ。探して来て欲しいの。ここで待っているから、持ってきて。指輪のこと、あなたのお母さんはたぶん知らないの。ソウコは覚えているかもしれないわ。子どものころに、見せてあげたことがあったと思うの。きれいねって、きらきらした顔で見ていたわ」
ソウコちゃんは、母の姉だ。
「わかった。わかったよチイちゃん。とりあえずソウコちゃんに会ってみるね」
そう返事をして、もう一度チイちゃんをみると、ベンチはカラになっていた。
もうそこに、チイちゃんはいなかった。
待っていたかのように、雨が強く降り出した。
全身の力が、すっと抜けたような感覚が残った。
夢でも見たんだろうか。
白昼堂々の夢か。バスになんて乗ったからか。やっぱり幻覚だったのか。
でも。
ついさっきまで確かにそこにチイちゃんがいた。いや、いたような気がする。空になったベンチに、まだ気配が残っている。
なによりも指輪のことが気になった。まだ見たことのない青い石の指輪。きっとどこかにある。根拠のない確信だ。その指輪が見つかったら、ここで会ったチイちゃんは、本物なのだ。
チイちゃんが座っていたベンチに、今度は私が座る。誰かが座っていたぬくもりが、確かに残っていた。おしりがじんわりあたたかくなった。しばらくそのまま、ぼんやりしていた。
一時間ほど経っていた。実家に行く途中だったことを思い出した。傍らには、大きなスーツケースがあった。
もう一度バスに乗る。
駅からバスにゆられて二十分の実家には、ママがひとりで住んでいる。父は一年前に亡くなったばかりだ。
ママとは、とにかく気が合わない。好みも考え方も正反対だ。
私には、ほめるところがどこにもないと、子どものころに繰り返し言われた。
だから、何をやってもダメな子なのだと、自分を位置づけた。
それでもほめられようと、ときにがんばって勉強して、成績があがったとしても、その前の点数の悪かったテストのことで繰り返し説教をされた。ママは、私が何をしても、ほめることも、理解することも、受け入れることもしなかった。
私が自分から何かしようとすれば、必ず反対した。
ママとは、もう何も話しをしたくない。大人になるのが近づくにつれ、強く思うようになった。
ママから離れて、自分を生きたい。
遠い大学を選んで、十八歳で家を出た。
大学を卒業しても、コンビニのアルバイトを続け、定職につけず、結婚とも縁遠い。私は、さらにママにとって目のうえのたんこぶになった。
会えば、なぜ普通にできないのかと責め立てる。育て方を間違えたと、声をあげて大げさに悲嘆する。
普通ってなんなんだ。
育て方ってなんなんだ。
ママの思うような大人になれなかった私がいけないのか。母親として、失敗作を産んでしまったと後悔しているのだろうか。後悔している自分に酔っているようにも見える。
いつまで私は、ママの付属品みたいに扱われるのか。
ママの思う通りに、ママの考える通りに、娘の私も思い、考えるという前提で、私は存在している。ママのなかでは。
だから、本当は会いに行きたくない。どうせまた、何かネタを見つけては私を責め立てる。だから今日も、スーツケースだけ渡して小言が始まる前に逃げ帰るつもりでいた。
子どものころ、チイちゃんと両親と暮らしていた。チイちゃんはママの母親だ。
祖父が亡くなったときに、父が義理の母といっしょに暮らす決心して建てた家が、いまの実家だった。リビングと中庭を挟んで向かい合うようにチイちゃんの部屋があった。日だまりの縁側に籐いすを置いて、チイちゃんはよく居眠りをしていた。庭のバラの手入れと、近所の散歩が日課だった。
ママとの関係に息苦しさを感じていた私にとって、チイちゃんの部屋は家のなかで唯一のオアシスだった。ママとぶつかるたび、何度もチイちゃんの部屋に逃げ込んだ。泣きながらチイちゃん抱きついた。チイちゃんはそっと頭をなでてくれた。ママの起こした嵐がおさまるまで、雨宿りをさせてもらうような場所だった。
大学に進学して家に出たあとも、チイちゃんに話しを聞いてもらうために、実家に帰った。
チイちゃんが亡くなって、チイちゃんのいなくなった実家に、私が行く理由はもうなかった。それ以来、実家にはあまり寄りつかなくなってしまった。
チイちゃんの部屋のなかが今どうなっているのか、よくわからない。ドアもカーテンも締め切られていたような記憶がある。片付けの下手なママが、いらないガラクタを詰め込んで、物置部屋のようになっていたような気もする。
チイちゃんが探している指輪がまだあの部屋に残っているのだとしたら、探し出すのは相当大変な作業になる。
バスは、実家近くのバス停に着いた。スーツケースを抱えて降りる。世界がぐるぐる動き出す。いつものめまいだ。雨はまだ降っている。歩くのには苦にならないくらいの霧雨にはなったけれど、長く歩けばそこそこ濡れる。
実家へは、バス停脇の細い道を入り、坂道をのぼる。道路から玄関までは、さらに長い階段がある。
こんな不便なところにひとりで暮らしているって、どんな気分なんだろう。駅まで遠いだけでなく、コンビニさえも近くにない。静かな住宅街といえば聞こえがいいが、生活の不便さを考えれば、陸の孤島だ。
環境を変えないことが、生活するうえで負担になっていることもある。
でも、ずっとここで生活しているママは、きっと気付いていないのだろう。
スーツケースを押し上げながら、ひっぱり上げながら、やっとの思いで坂と階段をのぼった。
玄関のインターフォンを押してみたが反応がない。鍵を持ってこなかったので、家のなかには入れない。ママはいつでも家にいるものだと、勝手に思い込んでいた。
仕方ない。スーツケースは、玄関の前に置き去りすることにした。屋根もあるし、それほど雨に濡れずに済むだろう。どっちにしても、もう濡れているけれど。
仕方ない。そう思いながら喜んでいる。なによりママと顔を合わせずに済んだ。少しホッとした。
それよりも指輪のことだ。
ママの不在で実家の用事が早く終わった。その足でソウコちゃんの家に寄ってみることにする。
ソウコちゃんは、実家から歩いて十分くらいのところに住んでいる。
チイちゃんが、ソウコちゃんなら指輪のことを知っているかもしれないと言っていた。
ソウコちゃんはカメラマンをしている。最近は山に、特に北アルプスに登って、山の写真を撮っている。登山が趣味だった祖父が写真をよく撮っていたので、その血を受け継いだのだろう。
雪の降る季節にも、雨の多い時期にも、山に入る。靄のなかから一瞬覗く岩肌が好きだと言っていた。
私が幼いころは、海外の山を被写体にしていた。一年のほとんどをカナディアンロッキーで過ごし、たまにおみやげを抱えて帰ってきていたのを覚えている。
ソウコちゃんは、私にとってあこがれの大人だ。カメラを片手にひとりで世界の山を歩く。ソウコちゃんみたいになりたいと、ずっと思ってきた。
そんなことを知ったら、ママはきっと怒るから、口に出したことはないけれど。
ソウコちゃんには、息子がひとりいる。家族の誰にも相談せずに、未婚のまま、妊娠して、海外で出産して、赤ちゃんを抱いて帰ってきた。おみやげを抱えて帰ってきたときのように。
きっとたくさん苦労している。それでも、ママよりもひとつ年上とは思えないほど若々しいし、かっこいいし、理解してくれるし、自由だ。
私も写真を撮るのが好きだ。本当はソウコちゃんみたいなカメラマンになりたい。何を撮りたいのかわからないけれど、ソウコちゃんみたいに写真を撮ってみたい。
バイト代をためて、少し前に一眼レフのカメラを買ってみた。まねごとで、公園に咲いている季節の花とか、木々のすき間から見えた空とか、何でもいいから撮ってみると、ソウコちゃんに近づけたような気がした。
カメラを買ったことをママが知ったら、きっとあんたにできるわけがないと言って反対するだろう。
ママは、私が何かしたいと言うたびに反対してきた。私が何かを選ぼうとするのがイヤみたいだ。ママの思うように生きていなければ、すべて否定の対象になるのだ。
ソウコちゃんの家は住宅街の路地の奥まったところにある。裏に公園の緑と斜面を背負った、山小屋みたいなログハウスに住んでいる。木々に囲まれた、山の写真家らしいたたずまいの家だ。
ソウコちゃんは、庭で淡いピンク色のバラの写真を撮っていた。春のバラが、初夏にもまだなごりで咲いていた。
ソウコちゃんの庭は、撮影で留守がちのわりによく手入れされている。実家のほったらかしの庭とは段ちがいのきれいさだった。
「あらシホ、めずらしいじゃない。あなたのお母さんとケンカでもしたときじゃないと、ここには来ないのに」
そうだった。ここもチイちゃんの部屋と同じく、ママから離れて逃げ込む場所だった。チイちゃんも、ソウコちゃんも、私を逃げ込ませてくれる安全地帯だ。
「ソウコちゃん、こんにちは。今日はまだママとはケンカしてない。これからたぶんするけど。ちょっと聞きたいことがあって」
「なに?」
「あのさ、チイちゃんが持ってた指輪のことなんだけど。青い石の指輪らしいの。私は見たことがなくて。ちょっと気になって。ソウコちゃん知ってるかなーって思って」
ソウコちゃんの表情がみるみる曇る。困惑から、次第に怒ったような顔になる。
「母さんの指輪って、青い石の指輪のこと、なんでシホが知ってるの」
そうだよね。そう思うよね。どう説明していいのかわからない。
「あの、えっと、チイちゃんが亡くなったあと、遺品整理をしたときに見たような気がしたの。きれいだなー、って思ったのを急に思い出したんだけど。でも、いまどこにあるかわからなくて。もう一度、見てみたいなーと思って。きれいだったから。ほんと急に思い出したの」
ソウコちゃんは、まだ怪訝な顔をして私をにらみつけている。私が指輪に興味をもったのを、なかったことにしたいみたいだ。
それが、ソウコちゃんが指輪のことを知っている確信に変わる。どんな指輪なのか、指輪と祖母に何があったのかをソウコちゃんは知っているのだ。
ソウコちゃんは、大きなため息をひとつついた。
「お茶でも飲もうか」
そう言って、家のなかに私を招き入れた。
ソウコちゃんの家は、写真家としての仕事場を兼ねている。書棚に囲まれたリビングの真ん中に、大きなダイニングテーブルがあって、仕事机と食事と兼用している。
資料や食材がごったがえすように積まれた机のうえに少々の場所を作って、ソウコちゃんは紅茶のティーバッグの入ったマグカップをふたつ置いた。
何から話したらいいんだろう。熱いマグカップを両手で抱え、ようすをうかがう。
ソウコちゃんには、本当のことを話してみていいのかもしれない。
でも、チイちゃんの幽霊話しを本気にしてくれるとも思えない。あきれられて笑われて終わるのが目に見えてる。
指輪のことは、どう説明しよう。きれいだと思って気になったなんて、とりあえずのことを言ってしまった。いまさらチイちゃんに頼まれたなんて言いにくい。
チイちゃんもチイちゃんだ。ソウコちゃんに直接頼めばいいのに。なんで私のところに出て来たんだろう。
「母さんが亡くなって随分経つから。もう時効だと思うのよ」
沈黙を破って、ソウコちゃんが突然話し始めた。時効という言葉にドキリとする。胸騒ぎがする。
「私がまだ幼いころ、しばらく箱根に住んでいたことがあるの。父さんの仕事がうまくいかなくて、食べるものにも困るくらい、とにかく貧乏だった。いつもお腹がすいてた。家族で行き場がなくて、箱根で旅館を経営していた親戚を頼ったの。親戚っていったって、親しい付き合いがあったわけじゃなくて、かなり遠縁だったみたいなんだけど。切羽詰まって、無理矢理頼み込んだらしい。シホも聞いたことあるでしょ」
そういえば、そんな思い出話を何度か聞いたことがある。倉庫みたいな古屋を借りて住んでいたとか、食べるものがなくて自己流で慣れない畑仕事をしたとか。
「私はまだ3歳くらいだった。記憶の断片が残ってるだけ。だけど忘れられないシーンがあるの。母さん、不倫してたんじゃないかと思う」
不倫。
やさしいチイちゃんからは、想像もできない言葉が飛び出した。
心臓がどきどきと音を立て始める。
「あのとき、父さんは東京に残ってて、小さい娘をふたり連れて、母さんは相当苦労していたと思う。そんなときに、手を差し伸べてくれる人が現れたら、誰だってグッときちゃうと思うのよ」
ソウコちゃんが忘れられないと言ったシーンは、背の高い外国人の男性がチイちゃんと話していたこと、チイちゃんが引き出しから指輪を取り出してぼんやり眺めていたこと、チイちゃんが部屋でひとり、泣いていたことだった。
「きれいな箱に入ったクッキーをもらったことがあって、箱だけずっと取って置いたの。絵はがきとかおはじきとかビー玉とか、宝物って名付けたガラクタを入れてね。随分経ってから、小学校くらいのときだったかな、このきれいな箱どうしたんだっけって、母さんに聞いたことがあって。それはジェイコブさんにもらったのよ、って言うのよ。あの人、ジェイコブさんっていう名前だった」
ジェイコブさん。外国人。チイちゃんの不倫相手。
ソウコちゃんから湧いてきた情報の量が多すぎる。
「母さんの指輪も、きっとジェイコブさんにもらったんだって思った。記憶がつながってびっくりした。きっとこれは秘密にしなきゃいけないことなんだ、って。最初は心のなかにとどめておこうって思ったの。でもむかし母さんとケンカしたときにうっかり言っちゃって、問い詰めることになっちゃって。もう父さんも亡くなった後だったし、渋々話してくれたの」
指輪は、チイちゃんが芦ノ湖のほとりで出会った、イギリス人にもらったものだった。
ジェイコブ・アンダーソン。
イギリスからやってきた教師で、箱根にある学校に赴任していた。
チイちゃんは、親戚の経営していた箱根の旅館で、娘ふたりを連れて住み込みの下働きをしていた。祖父は、東京で仕事を探していた。仕送りをする、という名目だったが、祖父は若い女性と暮らし始めていたらしい。しばらくすると仕送りは滞り、連絡がとれなくなった。
ジェイコブさんとは、そのころ知り合ったらしい。娘ふたりを抱えて苦労しているチイちゃんの姿に、同情したのかもしれない。
ジェイコブさんは、母親の病気の知らせを受け取り、イギリスへ帰ることになった。チイちゃんにいっしょに来て欲しいと言ったけれど、チイちゃんは拒んだ。夫も子どももいる身だからと。
そのときに、チイちゃんは指輪をもらったのだ。ジェイコブさんの瞳と同じ色の青い石がついた指輪を。
バスで箱根を去るジェイコブさんを、チイちゃんは隠れるように見送った。
本当は、いっしょに乗って行きたかった。どこか遠くへ、いっしょに行ってしまいたかった。
バスが行ったあと、チイちゃんは逃げるように家に帰って、部屋でひとり泣いた。
それを幼かったソウコちゃんが見ていた。
チイちゃんがおじいちゃんのことを愛していなかったなんて、そんなのがっかりだ。おじいちゃんに女の人がいたなんて知らなかったし、もう随分前に死んじゃったけど、ずっと仲の良い老夫婦だと思っていた。理想の夫婦だと思っていた。それなのに。チイちゃんの心のなかには、別の男性がいたなんて。
ソウコちゃんは、ためいきをひとつついて言った。
「許してあげようよ。大変な時に支えてくれた人がいて、その人との思い出は、きっとずっと美しいままだよ。もう自由になってもいいでしょ。だって、父さんも母さんも、もう死んでるんだから」
人を好きになるって。理由とかなくて、そのときの立場とかも関係なくて、結婚とか夫婦とか子どもとか、そこにある状況に制限されるなんて無理なのか。
幸せな暮らしと、美しい思い出とが、すべて同じ人と歩んだ時間だけだったらいちばんいいのかもしれないけど、長い人生、そんなにうまくはいかない。同じ人とばかり、時間を刻んでいるわけじゃない。
「好きな人がたくさんいたなんて、幸せなことじゃない。人との出会いの数だけ、きっと母さんは幸せだったんだって、思いたい」
ソウコちゃんの言う幸せには、深い大人のかおりがした。ソウコちゃんの生き方につながる想いを垣間見たような気がした。
ソウコちゃんだから理解できる、チイちゃんの過去があるのかもしれない。
☆
ふらふらしたところのある人だとは、思っていたけれど、このたいへんな時に帰ってきてくれないとは思わなかった。帰らないどころか、もうずいぶん連絡も取れていない。
捨てられたのかもしれない。そんなこと、想像もしてなかった。夫婦として、助け合って、このたいへんな時を乗り越えていくのだと思っていた。理想だったのか。夢を見ていたのかもしれない。
でも、どうにかしなくては。ソウコもキョウコもまだ小さい。
あの人の仕事がうまくいかなくなって、借金ばかりがふくらんで、身動きができなくなった。生活が成り立たない。東京の下町から箱根へ逃げてきたのは、一年半ほど前のことだ。着の身着のまま、娘ふたりを抱えてここへ来た。かなり遠縁らしいが、夫の親戚のところに世話になっている。
歓迎されたわけではない。何かをしてもらえるわけじゃない。ただ、置いてもらっている。下働きの仕事もある。顔をあわせれば、嫌味を言われることも日常茶飯事だ。使ってやっているのに、そんな目で見るなと、繰り返し言われた。どんな目で見ればいいのかわからない。出て行けたらどんなにいいかと思うような毎日だけれど、出てしまったら行き場がない。娘ふたりを抱えて、野宿生活をするわけにはいかない。大きな旅館の離れの裏にある物置小屋に間借りしているから、狭くて暗くて、野菜の腐ったような匂いがしているけれど、それでも野宿をするよりはずっとマシなのだ。
できるだけいい顔をして、機嫌良く、品良く、笑ってすごしている。それがここで生きていくすべだ。
でも、夫と連絡が取れなくなっていると知れたら、この家から追い出されるかもしれない。
安心して眠りたい。
娘ふたりを連れて、芦ノ湖の湖畔まで歩いてみた。こんなに近かったのかと思う距離だった。太陽が湖面を照らしてきらきらと輝くようすを、水際に座って娘たちと眺めた。
杉並木のほうから、賑やかな声が聞こえてきた。学校だろうか。男の子ばかり、二十人ほどいる。引率しているのは、背の高い外国人だ。そういえば、外国人の運営する学校があると聞いたことがあった。
「こんにちは。お散歩ですか」
予想外に流ちょうな日本語で話しかけられて戸惑う。下を向く。
「かわいいお嬢さんですね」
娘たちは、にこにこ笑いかけている。子どもは、先入観や偏見を持たずに、その人をまっすぐに見る。
若い外国人の男性と話ししているところを誰かに見られたら、やっかいだ。お願い。早くどこかへ行って。
「困ります」
いきなりそんなことを言われて、失礼だとは思ったけれど、それ以外に言葉が浮かばなかった。
「ごめんなさい。でも、もしも何か困っていることがあるのなら、あなたの力になりたいのです。小さいお嬢さんおふたりと、ぼんやり湖を見ている姿を見たら、心配になってしまって」
ここで娘たちと水のなかへ入って、命を絶とうとしているように見えたらしい。
そうできたら、どんなにいいか。
そう思ったら、途端にこみあげる。ぽろぽろと頬を伝って、涙が足下に落ちた。
生きることにギリギリで、どうにかここへ流れついて、それでも泣かずに来たのに。
その外国人は、よくがんばりましたね、大丈夫ですからね、そんなことを繰り返し言いながら、大きな手で私の背中をさすった。
男性にこんなに優しくされたのは、初めてのことだった。夫にも、こんな風に接してもらったことはなかった。
外国の人だからだろうか。何か下心があるのだろうか。それでもいまはこのままにしていたかった。
娘たちは、彼が連れてきた学生たちと遊んでいる。舞うように、手をひらひらさせながら、湖畔を走っている。
それから毎日のように、芦ノ湖へ足を運んだ。彼と会えるかもしれないと、少し期待しながら、湖畔を娘の手を引いて散歩した。
週に何度かは、学生たちを連れた彼に会えた。娘たちはお兄ちゃんのような学生たちと遊び、私は彼に身の上を話した。
夫がいて、でも捨てられたかもしれない、ひとりで娘たちを育てなければいけないかもしれない。抱えている不安を打ち明けた。
ときには楽しい話しもした。他愛もないことだ。空に流れる雲のかたちが、犬に似て見えるとか、パンみたいだとか、誰かの顔みたいだとか。
美しい絵柄の箱に入ったクッキーをもらったこともあった。娘たちは箱を気に入りガラクタを詰め込んでいた。
彼の故郷のことも聞いた。
美しい森があって、この場所に似た湖があって、野山があって、自然に囲まれて育ったこと。厳しい父親とやさしい母親に愛されたこと。教師として勤めていた学校を、運営していた修道会に派遣されて、遠く日本へ来たこと。
戦争から立ち上がった日本が世界へ開いていくための力になりたいというのが、彼の夢だった。だから日本の子どもたちに、世界に通用する教育という力を与えたいと語った。
人の目は、どこにでもある。彼と会っているところを、見ていた人がいた。
何をしていたわけじゃない。やましいことはない。ただ話しをしていただけだ。
でも、外国人の男性と、幼い娘を連れた母親が、親しげにしているようすを、快く思わない人もいる。
たいていは、疑いの目を向ける。
住まわせてもらっていた遠縁の親戚の耳にも、そのことが伝わったようだった。ふしだらだと、面と向かって言われた。近所の手前がある。出て行って欲しい、と。
許してください。許してください。何もないのです。もう会いません。
それから、もう芦ノ湖へ行くのはやめた。娘たちは遊びに行きたがったが、なだめて部屋にこもった。
誰かにやさしくされることは、許されないことなのか。
ただ、やさしくされたかっただけなのに。
月のきれいな夜、娘たちが寝静まったあとに外へ出た。どうしても湖畔へ行ってみたかった。黒い空、黒い海、不安と恐怖の空気に包まれる。そこを照らす月だけに、かすかな希望を感じる。
この湖で彼と出会って、彼にかけられた言葉はきっとまぼろしだったのだ。
ボート乗り場の桟橋に、足を抱えてすわった。しばらくの間、湖面に風の渡る音を聴いていた。
そのうち、風の音に、ざっざっざっと大きな歩幅で歩く音が重なった。誰か来る。
逃げようと立ち上がると、待って、そう声がした。あの声だった。
会えてよかった。彼は言った。
「このままもう会えないのかと思っていました。あなたにお礼が言いたくて。母国に帰ることになったんです。母の具合が悪いので。また日本に来られるかどうかわかりません。やりのこした仕事もありますが、いまは母のことが心配なのです。日本での慣れない暮らしのなかで、あなたにここで会えたことが、わたしにとってひとときのやすらぎでした。ありがとう。感謝しています。何かお礼をしたくて、こんなものを渡していいのか迷ったのですが。わたしのことを覚えていてください。わたしの目と同じ、青い石です。この海と同じ、青い石です。思い出してください。私のことを。この指輪を見たら、きっと思い出します。私の瞳のことを。この世で無理ならば、天国で待っています。もしそのときまでこの指輪を目印に持っていてくれたら、きっと会えます。だから、なくさないで」
そう彼は言って、私の手にそっと指輪を握らせた。青い石の指輪だった。
たった一度だけ、指にふれた。
何も言えなかった。何かを言わなければと思うほど、何も言えなかった。
彼は笑顔を残して、去って行った。
夜の闇のなかを、バスがやってきて、彼を乗せて去って行った。
手をふることもできなかった。
私はその場に座り込んだ。
☆
ソウコちゃんは、マグカップをなでながら考え込んでいた。
「母さんが亡くなってすぐに荷物を片付けたときに、引き出しのなかに青い石の指輪を見たような気がするの。あの指輪だ、って気がついて、とっておこうと思ったんだけどそのあと見当たらなくなっちゃって、それきり。どこかにまぎれてしまったか、形見分けで誰かが持って帰ったか、わからないの」
チイちゃんの荷物を片付けたのは、ソウコちゃんとママと私。あとユウキが来てたんじゃないだろうか。ユウキはソウコちゃんのひとり息子、私の従弟だ。
ソウコちゃんは、未婚のままユウキを産んだ。ユウキの父親がどんな人なのか、どこで知り合ったのか、どうして別れたのか、誰にも話していないらしい。
今となっては、チイちゃんの秘めた恋とダブって見える。
ソウコちゃんに何があったのか聞いてみたいけれど、そんな勇気はない。ただ興味半分で聞いていいこととは思えない。そんなミステリアスな部分も含めて、ソウコちゃんはかっこいいのだ。
ソウコちゃんがシングルマザーになったことで、チイちゃんとソウコちゃんとママの関係は微妙なものになった。それまでは仲の良い姉妹のようだったのに、世間体とか、常識とか、そんなものが邪魔をした。チイちゃんは、孫であるユウキのこともなかなか受け入れなかった。かわいいはずの孫を、よそよそしく扱った。
あの人は勝手だから。ソウコちゃんのことをそんなふうに言うのが、ママの口癖になっていた。家庭を持たず、好きなように仕事をして、自由にふるまうソウコちゃんは、ママにとって障壁だったのかもしれない。
社会や世間との障壁。
本当はあこがれとの障壁。自由であることと、勝手であることは、似て非なる。見方の問題だ。自由であると思っていても、勝手だと見る人もいる。勝手だと思っていても、自由に見える人もいるのだ。それでも、自分で選んだ道にとやかく言われる筋合いはない。私はそう思う。
選ぶ勇気を、ソウコちゃんは持っていて、選んだのだ。だから、ママの言う勝手は、負け犬の遠吠えに思えてならなかった。
きっとママも自由になりたかったんだと思う。きっと、なりたいものとか、やりとげたいこととか、夢とか希望とか、あったのかもしれない。家庭で主婦として生きることは、望んだことではなかったのかもしれない。こんなはずじゃなかった人生を、歩んでしまったのかもしれない。
だから、自由になろうとする私を、許せない。ソウコちゃんのところへ逃げ込む私を、許せないのだ。
指輪はやっぱり実家にあるのだろう。物置部屋になってしまっている、チイちゃんの部屋のどこかに。
ママに事情を説明するのは面倒だ。闇雲にでも、勝手に探してみようか。
ママは、チイちゃんの指輪のことを知っているのだろうか。ジェイコブさんのことを知っているのだろうか。ママはどう思っているのだろうか。
ママに聞かなきゃいけない。これは避けられない試練だ。
ソウコちゃんの家を出て、実家へ戻る。玄関前に置いておいたスーツケースは片付けられていた。インターフォンを押すと、はい、と小さな声が聞こえた。モニター越しにこちらを見ている気配がする。ママだ。
「スーツケース、勝手に玄関に置いていかないでよ。だらしないんだから」
ママのお小言がもうはじまった。だらしない。ママにとって私はだらしない娘だ。
「二丁目の太田さんのところへ行ってたの。ミサちゃん、あなたと同級生だったわよね。離婚して帰ってくるんですって。あの家もたいへんよね」
ミサちゃんは、三つも年下だ。
「バス停のところの佐々木さん、がんなんですって。まだ若いのにね。お酒たくさん飲むらしいから、不摂生が祟ったのね」
「福島医院の大先生、そろそろ引退するんですって。秋にインフルエンザの予防注射をしてもらいに行ったら、手がふるえててどきどきしちゃったわよ」
「Aマートでたまごが特売だったからふたパック買ったら、Hストアのほうが安かった。だまされたわ」
怒濤の世間話がはじまる。脈絡なく、羅列するようにご近所の情報が披露される。出されたお茶をすすりながら、あいまいに返事をする。どの話題にも興味はない。関係のないこと、関わりたくないことばかりだ。
「あの」
くちをはさむ。ママの機関銃トークに盾を向ける。
「チイちゃんのことなんだけど。青い石のついた指輪をもっていたと思うんだけど。どこにあるか知ってるかな」
唐突に直球勝負で出る。
「母さんの指輪、そんなのあったかしら。アクセサリーが入ったひきだしがあったけど、がらくたみたいなのが少しあっただけで、姉さんと形見分けをしたときに処分しちゃったわよ」
処分。そうか。ママなら捨てそうだ。
「そういえば、ユウキがいくつか持って行ったかも。男の子が何に使うのよ、って聞いたら、なんとなくさー、おばあちゃんの思い出に、なんてセンチメンタルなこと言ってた。笑っちゃったわよ」
ユウキはソウコちゃんのひとり息子だ。父親も知らせずにソウコちゃんが産んで、チイちゃんが自分の孫としてなかなか受け入れることのできなかったユウキだ。
「そうだ、思い出した。これきれいだね、って青い石の指輪を太陽にかざして見ていたわよ。あの指輪かも」
ユウキに会うのは、何年ぶりだろう。チイちゃんの葬儀のとき以来かもしれない。
従弟だからといって、特に話しをすることなどない。歳が離れているから、いっしょに遊んだ記憶もない。お互いにひとりっこで、たったひとりの従弟だけれど、ただ従弟だというだけだ。
ソウコちゃんは、ユウキを寮のある中高一貫校に進学させた。ミッション系の学校で、箱根の山のなかにある。仕事で留守がちなソウコちゃんは、ユウキを早く自立させようと思ったのかもしれない。
ただ、年頃になるユウキとぶつかることを避けたのかもしれない。
ユウキは、さみしくないのだろうか。母親から離れて、父親を知らず、ひとりぼっちだと感じないのだろうか。
チイちゃんは、ユウキを避けているようだった。かわいい孫だったとは思うけれど、ソウコちゃんが誰にも知らせずに産んだ子どもだったからだ。ひとことぐらい相談して欲しかったと、母親なら思っていただろう。
ソウコちゃんは、なぜユウキのことを誰にも相談できなかったのだろう。打ち明けられないような家族関係だったのだろうか。
ユウキの父親は、どんな人なんだろう。ソウコちゃんは、どんな恋をしてユウキを身ごもったのだろう。どんな気持ちで、ひとりユウキを産んだのだろう。
聞いてみたいけれど、ただの興味本位で聞いてはいけないことのようにも思う。ママもチイちゃんも、きっと聞いていない。聞いたかもしれないけれど、きっとソウコちゃんは答えなかっただろう。誰かに話さないことで自分のためだけの大切な出来事になっているのかもしれない。
そんな想像をめぐらす。ユウキのことを思い出すたびに。
ユウキに会いたいと、ソウコちゃんに伝えた。チイちゃんの指輪をユウキが持っているかもしれないのだ。
「あの子はたぶん会ってくれないわ」
ソウコちゃんは、落ち着いたようすで言った。
「最近、私にもまともに会ってくれないの。母親を避けたい年頃なのかもしれないけど、家には毎週のように帰ってきても、部屋に入ったきり。何も話してくれないの。学校で何があったとか、友だちとうまくやってるのかとか。離れて暮らしているんだもの。そういうの聞いてみたいんだけど」
「ソウコちゃん、そういうのって、私だってユウキの歳くらいのとき、ママに何も言わなかったよ」
男の子なら、なおさらだろう。話す理由がない。
「そんなものなのかしらね。母親ってさみしいわね」
「さみしいのはきっと子どもが成長したってことだから。安心していいんだと思う」
安心していいなんて、とりあえずその場をつくろうようなこと、言ったかもしれない。
「ユウキには父親がいないじゃない。私が父親と母親と両方やってやる、くらいの気持ちで育ててきたけど、本当に父親だったら話しを聞いてあげられたかもしれない、って思うこと、あるなー」
ソウコちゃんが、弱音を吐いている。なぜか私に。
「ソウコちゃんはすごいよ。尊敬してるよ。私の目標なの。あこがれなの。だから大丈夫だってば」
これが私の本心だ。
「なにそれ。あんたのママが聞いたら卒倒するわよ」
ふたりで笑った。ママがソウコちゃんだったらよかったのに。心からそう思った。
ユウキが暮らす寮と学校は、箱根の山の中にある。バスを乗り継いで行く。小学生のときに、最初にバスに酔ったあの道の途中だ。会いに行くには、ハードルがかなり高い。
「ユウキ、今週末も帰ってくると思う。シホは偶然来た、みたいに、ごはん食べにおいでよ。何か話すチャンスくらいは作れるかもしれない」
「ありがとう。実はユウキとあんまり話したことないんだ。せっかく、たったひとりの従弟なのにね」
「あの子は、シホのことあんまりよく思ってなかったかも。シホは母さんのお気に入りだったでしょ」
ドキリと胸が鳴る。私のことをよく思ってないだろうということは、なんとなく気付いていた。避けられているというか、敵対心をもたれているような気がしていた。
チイちゃんは、ユウキのことを受け入れるまでにとても時間がかかった。海外に仕事に行ったきりだったソウコちゃんが、突然赤ちゃんを抱いて帰ってきたのだ。
チイちゃんとソウコちゃんが、繰り返しケンカをしていたと、ママがよく言っていた。
「あの人たち、仲が悪いのよ」
ママから何度聞いたかわからない。
チイちゃんは、ユウキにどう接していいかわからなかったのだ。その代わりに、私のことを前よりもかわいがるようになった。私がかわいかったからではなく、ユウキに向ける分の愛を、注ぎ間違えたみたいだった。
「シホちゃんはかわいいね。シホちゃんはいいこだね。シホちゃん大好きよ」
子どものころ、ママとケンカしてチイちゃんの部屋に逃げ込むたびに、そう言ってあたまをなでてくれた。
安心できたし、うれしかったけれど、もしかしたらそれはユウキにも言いたかったことなのかもしれない。チイちゃんの言葉の半分は、ユウキのものだったかもしれない。
そしてユウキも、きっとチイちゃんにほめられたかった。もっと愛されたかったはずなのだ。
その日、風が強く吹いていて、ソウコちゃんの家の裏山の木々が、大きく揺れていた。夜に見る森は、ちょっと怖くて、体が縮こまる。
ソウコちゃんの家について呼び鈴を鳴らすと、ユウキが出て来た。
「あ、シホちゃん。どうしたの。お母さんはいまいないよ」
「え? ソウコちゃんと会う約束をしてたんだけど。どこにいったんだろう」
ソウコちゃんが留守にするなんて、聞いてない。そういう作戦に出たのか。ふたりで話しをさせるつもりだ。あわてる。
「待たせてもらってもいいかな。すぐに帰ってくるよね、ソウコちゃん」
「うん。たぶん。どうぞ」
ユウキが家の中に入れてくれる。そのまま自室に戻ろうとするユウキを、呼び止める。
「ねぇ、ユウキ。久しぶりだよね。学校とかどうなの」
「べつに。ふつう」
手強い。どう話題を広げたらいいのか、わからない。
「ユウキ、すごいよ。なんか大人だね。まぁもう大人だけどさ。自立してる感じする」
どうにか持ち上げる。
「なりたくなくてもさ、大人にさせられちゃうんだよ、ここにいると」
「あはは、ソウコちゃんか。ユウキのこと信頼してるってことじゃない」
「でもさ、親に話し聞いて欲しいときだってあったんだ」
やっぱりさみしかったんだ。ユウキだって親に甘えたいときがあるはずだ。ソウコちゃんは突き放すタイプの親なのだろう。うちのママもそういうところがあるけど、ソウコちゃんのほうがシビアかもしれない。家庭環境がそうさせるのかもしれない。
「そういうときって、友だちに話したりするのかな」
「あー、いや、友だちはみんな子どもだからさ。ちゃんと面倒みてくれる親がいて」
「子どもに見えちゃうんだ。ユウキから見たら。きっと私も子どもなんだろうな」
「シホちゃんは大人だよ。ちゃんと大人だと思うよ。自分から実家を出て、暮らしてるんじゃん」
「私は逃げただけだよ。息苦しくて。実家にいられなかったんだ」
ママから逃げて、いまだにバイト暮らししてる大人って、ひどいお手本だ。
「シホちゃんはさ、兄弟が欲しいって思ったことあるのかな」
「お姉ちゃんが欲しかったよ。お姉ちゃんって何でも聞いてくれて、妹にはやさしそうだからさ」
「おれも。お姉ちゃん欲しかった」
「いるじゃん。シホお姉ちゃんですよ」
お姉ちゃんが欲しかったのに、お姉ちゃん宣言してしまった。
「マジかよ」
「マジだよ。いいよ、お姉ちゃんで。従姉だけど、お姉ちゃんみたいなもんじゃん」
ひとりっこ同士のいとこ。同じようなさみしさを抱えていたのかもしれない。
「気がむいたらでいいよ、お姉ちゃんは。っていうか、ほかに何か相談できるような人はいないのかな」
ユウキのことが、ますます心配になってきた。お姉ちゃんとして。
「学校に、老先生がいたんだ。イギリス人でもう授業をするのはリタイヤしてて、ご意見番みたいな感じで、いつも庭のベンチに座ってて、生徒たちの話しを聞いてくれるの」
イギリス人。ユウキの学校の運営母体は、イギリスにあるミッションスクールだ。学校に外国人の先生がいるなんて、さすがかっこいい。
「アンダーソン先生。みんなジェイコブって呼んでた。ジェイとか、ジェイジェイとか、ひどいときは、おじいちゃんとか、じいじとか、なんか気軽に呼んでた」
胸が高鳴る。
アンダーソン先生。
ジェイコブ・アンダーソン。
まさか、当人だろうか。こんなところで巡り会えるなんて。
「何歳くらいの先生なの?リタイヤしてるってことはかなり高齢なのかな」
「おばあちゃんと同じくらいか、もうちょっと年上かもしれない」
やっぱりそうだ。ジェイコブさんは、日本に帰ってきたということか。
「でも、もういないんだけどね」
「いないって、イギリスに帰っちゃったってこと?」
「いや、亡くなった。けっこう年寄りだったし、もともと持病があったみたいで。おばあちゃんが入院してた病院と同じところに先生も入院してて、亡くなったって知らせがあったんだ」
「それっていつのこと?」
「この前の雨の日」
雨の日。それは、チイちゃんが病院のバス停のベンチに座っていた日だ。
チイちゃんは、ジェイコブさんと会うために、幽霊になってあのベンチに座っていたのか。
「きのう、学校のチャペルで追悼礼拝があった。すっごい悲しくて。俺ずっと泣いてた。先生といろんな話しをしたんだ。先生のこともたくさん話してくれた。先生の若い頃のこととか。なんか家族みたいだったんだ」
「若い頃の話しって、まさか恋の話し?」
「なんで? そうだよ。先生の若い頃の恋の話ししてくれた。若い頃にも日本にいたことがあって、短い恋をしたんだって。子どものいる日本人の女性で、心がつながっていたんだって言ってた。でもいろいろあって、結ばれることはなくて。先生のお母さんからもらった指輪をその女性に渡して、イギリスに帰ったんだって」
「ユウキ、それって」
おばあちゃんのことかもしれないよ。
「それって?」
「ねぇ、ユウキ。指輪、持ってるでしょ。おばあちゃんの指輪。青い石のついた指輪」
「ああ、おばあちゃんの部屋を片付けてたときに出て来た指輪だよね。もらったよ。持って帰っていいって、おばさんが言ってたからさ。おばあちゃんが最初に入院したときに、一度だけお見舞いに行ったんだけど、あの指輪を病室でぼんやり眺めてたんだ。入院にも持って行くなんて、きっと大切なものなんだろうなって記憶に残ってて」
「すっごい大切みたいだよ。化けて出るくらいだよ」
「は?」
「それで指輪は?」
「おばあちゃんの部屋を片付けてたときに、思い出に何か欲しいと思ってあれこれ見てたら、あの指輪が目に入ったんだ。こんなところにあったんだ、って思って。お棺に入れてあげたらよかったんじゃないかと思ったんだけど、もう遅いし。それじゃもらっちゃおうって」
「それで指輪は?」
「あるよ。ちょっと待ってて」
ユウキは階段をかけあがるようにして、二階の自分の部屋へ急いだ。
こんなことって、あるんだろうか。ユウキはジェイコブさんに会っていた。万が一、別人だったとしても、こんなに事情が似ていることがあるわけがない。ジェイコブさん、本人だ。きっとそうだ。
チイちゃんが、ユウキとジェイコブさんをつなげたのだろうか。これが運命なのだろうか。
ユウキが降りてきた。青い石の指輪がつけられた銀色の鎖を持っている。
これがチイちゃんの指輪なのか。
ジェイコブさんからもらった指輪なのか。
指輪は、ブルートパーズだった。
カットのほどこされていない、つるんとした表面の大きめの石が、ハートの台につけられていた。リングの部分は、ゆがんででこぼこしていた。
「この指輪、先生に見せたことがあるんだ。おばあちゃんの話しをして、形見にもらったって言って、見せたらさ」
「ジェイコブさんに見せたのね!」
「シホちゃん、先生のこと知ってるの?」
ユウキが不審な顔をしてこっちを見てる。
「見せたら、どうだったの?」
「見せたらさ」
ユウキは、鎖のついた指輪を左手でぎゅっと握った。
「先生、一瞬ものすごく驚いた顔をしてさ。それで、もっとよく見せてくれって言って。手渡したら、青い石を日の光に透かすようにして見て、きれいですねって、きれいですねって、繰り返し言ってた。ずっと大切にしなさいって」
「それだけ?」
「それだけって、それだけだよ。これって高いのかな。高価な指輪を俺が持ってて、先生は驚いたみたいだったよ」
そうじゃないんだよ、ユウキ。
「先生は、お母さんからもらった指輪を若い頃に大切な人に渡したんだよね」
「そうだけど。先生の指輪の話し?おばあちゃんの指輪じゃなくて?えっと、ちょっとわかんないんだけど」
なぜわからないのか、わからない。ユウキは鈍い系の男子なのか。
「その指輪は、チイちゃんが若いころに出会った、イギリス人の男の人にもらったものなの」
しびれを切らして核心へ入り込む。
「イギリス人って、先生と同じじゃん」
「だから、同じなんだってば」
ユウキがかたまる。しばらく考えて、目を見開いた。
「えー!」
「行こうユウキ。この指輪、チイちゃんに渡さなきゃ」
「おばあちゃんに渡すって、お墓に供えるってこと?」
「そうじゃない。チイちゃんはお墓にいないの。たぶん病院のベンチにまだいるから」
「シホちゃん大丈夫? 疲れてない?」
「ユウキ、チイちゃんに会いたくない?会わせてあげるよ。その指輪があれば会えるはずだから。いろいろ考えないで、とりあえずいっしょに来て」
抵抗するユウキの手を引いて、外へ出る。月のない空は、夜道に少しの光りも与えてくれない。
暗い道をバス停まで走った。この指輪を早くチイちゃんに渡したい。バス停が見えてきたところで、ちょうど後ろから病院行きのバスがやってきた。振り返って手をあげる。
ユウキが遅れて走ってきた。
バスには、人が乗っていなかった。こんな時間に病院へ行く人はいないのだろう。
一番後ろの座席に、ユウキと座る。
何を話していいのかわからず、ふたりで黙っていた。
ユウキは、指輪を握りしめたままだ。
バスは、暗闇のなかを病院のバスターミナルへ滑り込んだ。
あのベンチがぼんやり白く光っている。
チイちゃんだ。
「お、おばあちゃん」
よかった。ユウキにも、チイちゃんが見えているみたいだ。
病院の停留所にバスは止まった。ゆっくりとドアが開く。我先にと急ぐように、ユウキと降り立った。
降りた目の前のベンチに、チイちゃんがニコニコ笑いながら座っていた。最初に会った日と同じように。
「ユウキも連れてきてくれたのね。ありがとうね」
「チイちゃんが探してた指輪は、ユウキが持ってたよ」
ユウキは、握ってた指輪をチイちゃんに差し出した。手をひらくと、指輪はふわっとチイちゃんの手に移った。
「ありがとう。この指輪よ。これを探していたの。よく持っててくれたわね」
「おばあちゃん、また会えるなんて思わなかったよ」
「ユウくん、会えてよかった。ユウくん、大好きよ。ソウコとのことがあってずっと言えなかったけど、本当に大好きよ。大切な大切な孫よ。ユウくん」
ユウキが涙をこらえて、肩をふるわせているのがわかった。
「おばあちゃん、俺も大好きだよ。ずっとずっと大好きだった。ありがとう、おばあちゃん」
きっとこのときのために、指輪はユウキの手に渡ったのだ。
「チイちゃん、この指輪のこと教えてよ。大切なものなんだよね。大切な人からもらったものなんだよね」
チイちゃんの口から、直接聞きたいと思った。思い出の話しを。
「シホちゃん、本当は、もうすべて知ってるんでしょ」
幽霊は何もかもお見通しらしい。
それでもチイちゃんは、ひとつ大きく息を吐いて、話し始めた。
「まだ若かったの。子どもたちを抱えて、おじいちゃんはどこかに行っちゃって、不安ばかりだったの。みんなそれぞれに生きるのが精一杯のときだったから、手を差し伸べてくれる人もいなかった。それでも、ジェイコブさんだけは、やさしくしてくれたの。外国の人だからそう感じたのかもしれないし、舞いあがっていたのかもしれないわ」
チイちゃんの表情が、明るく、若返って見える。
「だってまだ若かったのよ。この指輪は、私の思い出の大切な一ページなの。思い出を忘れないようにつけておく、目印みたいなものかもしれないわ」
そのとき、暗い病院のバスターミナルに、一台のバスが入ってきた。もう時間も遅く、ここを通るバスはないはずだ。
入ってきたバスは、チイちゃんの座っているベンチの前に止まった。見たことのない、古いバスだった。壊れそうな、大きなエンジン音が、病院に反響して体に振動が伝わる。
チイちゃんは言葉をとめた。
ユウキも、私も、ぼんやりとそのバスを眺めていた。
バスの扉がひらき、ひとりの外国人男性が降りてきた。
年齢は八十代くらいだろうか。年齢の割にはしっかりとした足取りで、こちらに歩いてくる。
「先生だ」
ユウキがつぶやいた。
チイちゃんと同じく、この病院で亡くなっていたジェイコブさんが、そこにいた。
「やっとお会いできましたね」
「やっとお会いできました」
ジェイコブさんが、手を差し出す。チイちゃんはその手をとって、立ちあがった。
ふたりの姿は、ふわふわと浮かんでいるようだった。それでも、しっかりとした足取りも感じた。
ジェイコブさんに手を引かれて、チイちゃんはバスに乗り込んだ。
指輪は、思い出につける目印みたいなものだと、チイちゃんが言っていた。
ジェイコブさんが、チイちゃんを見つけるための目印だったのだ。
ジェイコブさんとチイちゃんは、ゆっくりとバスの車内をすすみ、いちばん後ろの座席に並んで座った。
ユウキと私に、手をふっている。
「チイちゃん、ありがとう。幸せにね」
私も手をふる。
ユウキも涙でぐちゃぐちゃな顔のまま、手をふっていた。
「おばあちゃん!先生!」
しぼりだした声が、エンジン音に吸い込まれる。
バスは、ゆっくりと走り出し、夜に消えていった。
あの夜のことを、まだユウキと話していない。
バスを見送ったあと、それぞれ自分の家に帰って、それきりだ。
家に着いてから、ひとり反芻してみたけれど、時間が経つにつれて、見たはずのものが曖昧になっていった。
ついさっきの出来事のはずなのに、遠い記憶を手繰るようになっていた。
ユウキは、チイちゃんと会ったことをソウコちゃんに話したのだろうか。先生に会ったことを友だちに話したのだろうか。
ユウキもまた、忘れていくのだろうか。
ママは、私が届けたスーツケースをころがして、ひとり旅に出るそうだ。まずは、父との思い出をめぐるのだと言っていた。
何ひとつ、ひとりでできなかったママが、ひとり旅とは意外だった。自由になる道を、今から探すのだろうか。
ママが何を思い立ったのかはわからない。
でも、変化のときなのだろう。
私も変わらなくては。
ソウコちゃんは、また山にこもって写真を撮っている。今度、私も連れていってもらうつもりだ。
ソウコちゃんと、並んで写真を撮ってみたい。それがいま、私のいちばんやりたいことだ。弟子にしてくれるだろうか。
チイちゃんに渡した指輪が、どんな色でどんな形だったのか、それさえも正確に思い出せなくなったころ、都会の雑踏のなかに、チイちゃんとジェイコブさんに似た後ろ姿を見かけた。
チイちゃんの指には、青い石の指輪が光って見えた。
天国とこの世界は、そこここでつながっているのかもしれない。
終わり