泡沫人
リカコが死んだ。
大学のときの共通の知り合いから、連絡があった。
「エリ、リカコと仲良かったよね」
たしかにリカコとは、仲がよかった。はずだ。
でもリカコとは、もう随分会っていなかった。
連絡をくれた知り合いも、大学を卒業したあとは会っていないと言う。
リカコの携帯に登録されていた電話番号をひとりひとり、警察が手がかりを探して連絡をしているらしい。大学の頃に交換した携帯電話番号が、そのまま残っていたのだろう。
知り合いは、リカコとの関係や、事情を聞かれたそうだ。何か心当たりはないかと。
事情などなにも知らない。大学生のときにいっしょでした、という過去だけを語ったという。
「そのうちエリのところへも、警察から連絡があるかもしれないよ」
私は何を語ればいいだろう。
リカコはひとり、古いアパートで死んでいた。発見されたときには、すでに死後一ヶ月ほど経っていたらしい。
誰もリカコを探していなかった。
大学生だった四年間、リカコと私はいつもいっしょだった。親友だと思っていた。きっとお互いに。
でも、親友ってなんだろう。
教室では必ずとなりに座った。レポートもいっしょにやった。勉強熱心なリカコのレポートを、写させてもらったこともある。ランチもいっしょにとった。いっしょに行ったトイレの鏡の前でメイクを直した。
だって、親友だから。
バイトの面接にもいっしょに行った。バイトには、私だけが合格した。そういえば、そのあとリカコがどうしたかは覚えていない。どんなバイトをしてたのだろう。
就職活動では、同じ会社へ面接に行ったこともあった。いっしょに社会人一年生になれたらいいねと言っていたけれど、その会社に合格したのは私だけだった。
リカコは別の会社に就職した。確か、親戚の紹介だと言っていた。
大学を卒業して、就職して三年目に、私は結婚をした。
確かそのくらいの時期までは、半年に一度くらいは連絡を取り合って、ふたりで食事をしていたと思う。
リカコはお酒を飲まなかった。アレルギーだと言っていたような気がする。
近況報告をしていたのは、いつも私のほうで、愚痴も、自慢も、リカコはニコニコしながら聞いてくれた。
それでも、いつのまにか会わなくなった。会わなくなったのは、私が連絡をしなくなったからかもしれない。
連絡をしなくなった理由は、もう思い出せない。
そういえば、リカコから誘ってくることは一度もなかった。
リカコは、本当に親友だったのだろうか。
思い返してみると、リカコのことは何も知らない。何が好きで、何を考え、何をしようとしていたのかも。
リカコは、勤めた会社の同僚と結婚し、仕事を辞めて主婦となり、子どもが生まれて、郊外の一軒家に住んでいたはずだった。そんなことが、年賀状に書いてあった。主婦という社会的に見栄えのしない存在であっても、古いお手本にあるような、普通の幸せを手に入れたのだと思っていた。
でもリカコの最期は、ひとりで住んでいた古いアパートで、誰かに包丁で腹部を刺されていた。
警察は、リカコがホステスをしていたと話したそうだ。リカコがホステスなんて想像がつかない。おとなしくて、やさしくて、地味なリカコが。
ひとりで死んだリカコに、葬儀は行われなかった。死後一ヶ月ほどの変死体として、アパートの大家に発見され、警察によって検死され、荼毘にふされて、遺骨は引き取り手があらわれず無縁仏になっているらしい。
そういえば、リカコの両親がどんな人なのか、どんな風にリカコが育てられたのか、聞いたことがない。
リカコの夫は、子どもは、どこへ行ったのだろう。
そもそも、本当に存在したのだろうか。一度も会ったことがないし、詳しい話しも聞いていない。何度かやりとりした年賀状に書いてあっただけだ。
リカコは、自身のことを自ら話すことがなかった。何か聞かれれば答える程度だ。
私がひとりで一方的に、自分のことばかり話していたかもしれない。それをただ頷いて聞いてくれていた。
「エリちゃんはえらいよ」
「エリちゃんはすごいなぁ」
「エリちゃんのこと尊敬しちゃうよ」
「エリちゃんのそんなところ好きだな」
気持ちのいい相づちに乗せられて、私はもっと自分の話しをした。リカコの言葉をそのまま信じることはなかったけれど、悪い気はしなかった。くすぐったかった。
子どものころのことから、将来の夢まで。もう忘れてしまったようなことも、全部リカコに話した。
ときには嘘もあった。もちろん本当もあった。
リカコは私のことを、きっと私以上に知っている。
それでも私は、リカコのことを何も知らない。
本当に私は、リカコの親友だったのだろうか。
私がいっしょに過ごしていたのは、いったい誰だったのか。
リカコと私が、どこに行くにもいっしょだったのは、私がひとりぼっちになりたくなかったからだ。大学の大きな教室で、ひとりぼっちで過ごしたくなかったからだ。
仲間はずれにされていたとか、誰にも見向きもされなかったというわけではない。
同級生はみんな仲が良くて、あいさつもするし、ランチに行くこともあった。十数人の大きなグループで旅行したり、空き教室に集まって勉強したり、みんないっしょを楽しんでいた。
それでも、それぞれには決まった親友がいて、ペアで行動をともにしていた。
二人組になりましょう、という声がかかっったときに、ひとり、あぶれることだけは避けたかった。
子どものころ、いつも友だちとは三人組だった。仲の良い二人組に、寄せてもらう感じで三人目になった。たいてい、私以外のふたりには共通の趣味や好きなものがあって、その話で盛りあがる。共通の話題は、アイドルだったり、テレビ番組だったり、アニメのキャラクターだったりした。私はいつもそれを聞いている役目だった。
「ふーん。そうなんだ。おもしろいね」
気のない返事を繰り返す。興味のあるふりをして話しを合わせるけれど、本当は小指の先ほども気持ちは動かない。興味が持てないのだ。
そして、二人組になりましょうと先生が声をかけると、私はひとりになった。先生があぶれたほかの誰かと組み合わせてくれた。
学年が変わってクラス替えがあっても、三人目から抜け出せなかった。二人組になる方法がわからない。
三人目は、ほかの誰かといっしょにいたとしても、いつもひとりなのだ。
がんばって入った大学での学生生活では、三人目から卒業したかった。大学生のきらきらした毎日をすごすためには、三人目ではダメだと思った。
おとなしそうなリカコに声をかけたのは、私のほうだった。
ふと視線を感じて、見るとリカコがほほえむように私を見ていた。理由はわからないけれど、次の日もまた、視線を感じて見まわすと、リカコがいた。
リカコなら、いっしょにいてくれるかもしれない。そう思って声をかけた。リカコは、喜んで私の二人組の相手になってくれた。私の引き立て役にもなってくれた。
本当は誰でもよかった。
「うれしい。エリちゃんと仲良くなりたいと思っていたの。ありがとう」
これで、あぶれることはない。感謝したいのは、こっちのほうだ。
リカコは、よくなついて、よく言うことを聞いた。ペットショップの狭いゲージのなかでこっちを見る、子犬みたいだった。
リカコとペアの学生時代が終わり、大学を無事に卒業して社会人になった。
就職先は、大手の電気メーカーだった。誰もが知るブランドだ。
この会社に、リカコはいない。
私といっしょにいてくれる誰かを、また探さなければならない。うまくいかなければ、また三人目になってしまうかもしれない。恐怖に似た不安を持ちながら、ようすを伺う。誰がいるだろう。私といっしょにいてくれる誰かを探す。
ふと、いままでと人と人とを取り巻く空気が違うことに気付く。
もう学生ではないのだ。誰かと仲良しでいる必要もない。
共に仕事をするチームはあっても、仲良くランチする相手を無理に作る必要などないのだ。みんなでランチに行くことはあっても、行きたくなければ行かなくてもいい。仕事をしたければ、残ってすればいいし、本を読みたければ、席に残ればいい。
キャリアアップのために、ひとり勉強する人も多い。子どもがいれば、効率よく仕事をこなして、早く帰る。
みんなといっしょでないからといって、それを咎める人もいない。
それぞれが自分で考えて、自分の行動を決める。誰かといっしょでないといけない、なんてことはない。
子どものころからずっと、みんなといっしょ、そのなかでもさらに誰かといっしょであることが当たり前で、それを求められた。そこにあてはまらないものは、ダメなものだという感覚があった。それなのに。あんなに苦労していたのに、すべて覆された気分だ。
これが、大人になるということなのだろうか。
こわごわ、ひとりで行動をはじめる。ひとりで出勤し、ひとりで仕事をして、ひとりで打ち合わせに出席して、ひとりで出張する。ひとりでランチをとり、ひとりで計画を立てる。ひとりで。自分の考えで、自分の体をうごかしていく。
恐怖に似た不安は、いつのまにか心地よい時間に変わっていた。
いっしょにいる人がいなかったわけではない。わからないことは、同僚や先輩や誰にでも聞く。ひとりで決められないことは、相談する。
仕事以外の時間は、同じ部署の先輩だった男性と、いっしょにいるようになった。それぞれひとり暮らしの部屋を、行き来するようになった。
大学時代にも恋人はいたけれど、それはアクセサリーみたいなものだった。いないよりはいたほうがいい。女友達との時間を優先させて、女同士で恋人の愚痴を言い合い、話題作りのひとつにする。
でも、もう大人なのだ。
いつしか、結婚を意識するようになる。仕事と家庭と。将来の予想図を作っていく。
それぞれの部屋を行き来する生活に疲れたころ、そろそろいっしょに住もうかという話しになった。拒否する理由はなかった。そのほうがラクに思えた。
たしかあのころはまだ、リカコとは半年に一度くらいは会っていた。
ご飯をたべようと誘って、お互いの仕事場の近くで、雑誌に紹介されているようなレストランを選んだ。たいていイタリアンだ。
他愛もない話しをする。上司の愚痴とか、取引先の不満とか。パスタをぐるぐるとフォークにからませながら。
そういえば、リカコは一度も愚痴をこぼさなかった。どうでもいい悪態をついていたのは、いつも私だった。
「それじゃまたね。連絡するね」
リカコは、うんうんと頷く。
次の連絡をするのは、いつも私からだ。リカコからご飯の誘いや連絡がきたことは、一度もなかった。
だから、私が連絡をしなくなれば、もう会うきっかけも、理由もない。
リカコは、私のことを嫌っていたのだろうか。私の誘いを断れなかっただけなのだろうか。笑いながらも、嫌々付き合ってくれていたのだろうか。
結婚するかもしれないと、リカコに告げたとき、リカコは少し驚いた顔をした。そのあと表情が曇ったように見えた。
今度、彼に会わせるね、と言いながら、その話しはうやむやになった。
結婚式はしなかった。入籍して、そのままいっしょに暮らし始めた。
リカコを新居に招待することもなかった。
リカコを誘うことがなくなったのは、そのころかもしれない。
彼との新しい生活と仕事と。それだけで毎日がまわる。
大学生のころのように、女友達と話しをする時間に、必要性を感じなくなっていたのかもしれない。
そんなことよりも、もっとやりたいことがある。時間が足りない。
何か、成功を実感したかった。誰かと何かではなく、自分で。
成長したのだ。大人になったのだ。そのことが、リカコを必要としなくなったのだ。
リカコと私は、終わったのだ。
リカコと私は、本当に親友だったのだろうか。
リカコは、誰だったのか。
エリちゃんから声をかけてくれるなんて、考えもしなかった。ただうれしかった。エリちゃんが私のことを選んでくれたのだから。
同じ学部のなかでも、エリちゃんは輝いて見えた。おしゃれで、話し上手で、いつも笑顔で。あんな子が友だちだったら、きっとしあわせになれると思った。
大学生になりたくて三浪した。みんなより三歳年上なのは、内緒にしている。
高校を卒業したあと、アルバイトをしながら図書館で勉強した。予備校には通えなかった。
母親が出て行ったのは、高校二年のときだった。男の人ができたらしい。今までにも、何人も男の人がアパートに来ていたけれど、母親が出て行ったのは初めてだった。しばらくすれば戻ってくるだろうと思っていたけれど、それは楽観的すぎた。
普通の母親だと思っていた。でもそれは、ほかの母親を知らなかったからだ。
父親はもっと知らない。一度だけ会ったことがあるけれど、もう顔も思い出せない。母親よりずっと年上の、結婚できない人だったと聞いた。
母親は、未婚で私を産んだ。産んでやったんだ、育ててやったんだと、酔うたびに怒鳴った。母はいつも酔っていた。私は、ごめんなさいと繰り返し泣いて謝った。
何に謝っていたのか、いまとなってはわからない。冷静になって考えれば、謝って欲しいのはこっちのほうだ。
母親が出て行ってから一ヶ月ほど経ったころだっただろうか。ある日学校から帰ると、玄関をあがった床のうえに、茶色い封筒が置かれていた。封をあけると十万円が入っていた。母親から私への手切れ金だ。
母親は、十万円で私から自由になった。
小さなキッチンと六畳間、古いアパートの家賃は三万円。母親の残した十万円を使ったら、三ヶ月払ったところで底をつく。生きていくって、ほかにも光熱費とか食費とか、どのくらいかかるのか。最初は見当もつかなかった。
とにかくお金が必要だということは理解できた。何をするのにも、ただ生きるのにも、お金が必要だった。それまでやっていたハンバーガーチェーンのアルバイトのほかに、深夜のコンビニバイトも始めた。
こんな状況で、高校卒業後は就職すべきだったけれど、進学を目標にした。親に捨てられたどん底の生活から這い上がるには、大学卒になる必要があると思った。
大学生活にあこがれもあった。
でも何より母親を見返してやりたかった。十万円で捨てた娘が、立派に生きていく姿を見せつけてやりたかった。
それが復讐だった。
高校三年生で受験できた大学は、一校だけだった。受験費用が足りなかった。受かりそうな大学はなかったから、あこがれの一校を選んだ。もちろん不合格だった。
痩せた体に薄っぺらいドレスを着て、安っぽいヒールを履いて、濃いメイクをして、高いお酒をついで、薄ら笑いをしながらおじさんと話しをする仕事を始めた。お酒は飲めないから、飲むふりを覚えた。べたべた体を触られたりしたけれど、お金は貯まった。でも、勉強する時間が減ってしまった。
受験を始めて四年目に、一校だけ、中堅クラスの大学の国文科に合格した。三浪してまで行くような大学ではないと、世間は思うだろうけど、ほかに行き場がなかった。これが限界だと思った。
入学前のオリエンテーションの日に、エリちゃんに会った。広い講義室の中央あたりに座っていたら、エリちゃんがやってきて、私の前の席に座った。
ふわっといい香りがした。
エリちゃんはかわいかった。かわいいふつうの女子高生から、かわいいふつうの大学生になって、親にもふつうに愛されていそうな子だった。
ふつうという、私がどうやっても手に入れられないものを、全部持っていた。
ふつうが何か、教えてもらいたかった。
エリちゃんの姿を目で追っていたら、そのうち視線が合った。エリちゃんのほうから声をかけてくれた。
エリちゃんが友だちになってくれた。いつもいっしょにいてくれた。ひとりじゃない時間がうれしかった。家に帰ればひとりで、現実に引き戻される。だから大学でエリちゃんといっしょにいられる時間が、何よりの幸せに感じた。
でも、エリちゃんは私を利用しているっぽかった。それでもよかった。
エリちゃんに嫌われたくない。母親に捨てられたこととか、ホステスのバイトをしていることとか、大学に入るまで三浪してることとか、知られたらきっともう、エリちゃんはいっしょにいてくれない。家にいるときだけじゃなく、大学でもひとりになってしまう。エリちゃんといっしょの幸せを知ってしまった私には、もう耐えられないことだった。
だから、自分のことは話さないことにした。エリちゃんの話すことに、気持ちのいい相づちを打つだけにした。
「エリちゃんはえらいよ」
「エリちゃんはすごいなぁ」
「エリちゃんのこと尊敬しちゃうよ」
「エリちゃんのそんなところ好きだな」
本心のような、半分嘘のような、そんな言葉を繰り返した。エリちゃんはきっといい気分になっている。それが私にとっても、きっと幸せだったのだ。
アルバイトの面接にいっしょにいったことがある。普通の大学生がするようなアルバイトだ。エリちゃんは採用されて、私は不採用だった。ちょっとほっとした。これ以上、アルバイトは増やせない。
就職活動は、予想以上にうまくいかなかった。三浪の女子を採用してくれる企業は、存在しなかった。
とりあえず、ホステスのアルバイトを続ければいいのだけれど、それもいつまで、何歳までできるのだろうかと、不安になった。
エリちゃんには、親戚のコネで事務の仕事をすることになったと伝えた。親戚なんて、どこにもいないのに。
大学の卒業して、エリちゃんと毎日会えなくなってしまった。時々、エリちゃんが連絡をくれて、いっしょにご飯を食べた。その至福の時間を楽しみに、毎日を過ごしていた。それだけが、心の糧だった。
でも、エリちゃんに会いたいとは言えなかった。自分から何か言ってしまったら、今まで隠してきたすべてがバレてしまうような気がして、すべてが終わってしまうような気がしていた。エリちゃんからの連絡を待つことだけが、できることだった。
エリちゃんは、だんだん連絡をくれなくなった。毎月、連絡をくれていたのは、最初の数ヶ月で、それから三ヶ月おきになり、半年おきになった。一年ぶりにあったときに、エリちゃんが言った。
「私、結婚するかもしれない」
エリちゃんは、きっともう、私に連絡をくれることはないのだろうと思った。
でも、最高の笑顔をつくって、おめでとうを言った。
やっぱりエリちゃんは、もう連絡をくれなかった。
次の年のお正月、エリちゃんから年賀状が送られてきた。結婚しましたと、ウエディングドレス姿のエリちゃんと旦那さんの写真がついていた。
次の年のお正月、エリちゃんに年賀状を出した。私も結婚しましたと、嘘を書いた。
次の年のお正月、またエリちゃんに年賀状を出した。子どもが生まれましたと、また嘘を書いた。
エリちゃんからの返事はなかった。
お店をやめさせられたのは、三十歳の誕生日だった。若い後輩たちがケーキにろうそくを立てて祝ってくれたあと、店長に控え室に呼ばれた。いい加減にやめてくれ、三十歳のばばあがする仕事じゃないんだよ、ばばあに喜ぶ客はいないんだよと、怒鳴られた。そのまま荷物を持って、逃げるようにお店を出た。
うまくやっていたと思っていたのに。ここだけは、自分の居場所だと思っていたのに。ずっとはいられないのだと知った。
同じようなお店を探して、面接にも行ってみたけれど、すべて年齢で断られた。
どんな仕事をしていいのか、わからなくなった。
家にこもって、貯金を切り崩しながら暮らしていた。普通の暮らしをしばらくできるくらいの蓄えがあった。大学を卒業して、学費を払い終わったら、その先、お金をどう使っていいかわからなくなっていたから。
「あんた、まだここにいたんだ」
母親がいたことすら忘れていたころ、突然、部屋のドアが開いて、その人が入ってきた。
ひどく酔っている。崩れた濃い化粧の顔に、ふらふらした足取りで、ヒールも脱がずに部屋に入ってきた。
「あんた、ここでなにやってんのよ。ちょっと、ビールくらい出しなさいよ。お母様のお帰りよ」
出て行って。あんたなんか、私の母親じゃない。
「ねぇ、お金かしてよ。お金貸してくれたら出て行ってあげるよ」
冗談じゃない。あんたに渡すお金なんて、ここにはない。どこにもない。
警察を呼ぼうか。スマホはどこだっけ。机の上に手を伸ばしたとき、母親が抱きついてきた。
お腹のあたりが、ぎゅっと痛んだ。全身の筋肉が一旦縮まって、力を失った。痛んだあたりから、赤黒い血が、どくどく音を立てて流れ出てきた。
ぺたんと床に座り込む。そのまま、後ろに倒れた。
母親は、私のバッグのなかから、お財布を探し出して、部屋から出て行った。
大学の授業で、和歌を学んだ。現実逃避にはぴったりの、美しい世界だった。
伊勢という歌人の歌を思い出していた。
「思ひ川たえずながるる水のあわの
うたかた人に逢はで消えめや」
行方を知らせずにいたら、探してくれていた人がいて、あなたと会わずに消えたりしないわ、と答えた歌だ。水面に浮かぶ泡のように儚く、死んでいく人の歌だったと思う。
エリちゃんは、探してくれるだろうか。でもきっともう会えないのだと、消えゆく意識のなかで思う。
おわり