朱に染む
からんからんとアパートの古い階段をのぼって、薄っぺらい玄関ドアを開けると、薄汚れた二十八センチのスニーカーがハの字に転がっていた。靴底に、泥がついている。
靴を三足も置いたら、もうすき間のないような玄関だというのに、私はどこに靴を脱げばいいのだろう。
ハの字のスニーカーをそろえて置き直してから、すみっこに自分の靴をぬぐ。
今日も足がむくんでいる。
「おかえり。今日は早かったね」
西日の射した奥の部屋から、優司が眠たげな声で言った。
「ただいま。本社に書類を届けに行って、そのまま直帰していいって言われて」
大手企業の小さな営業所で、派遣社員として事務をしている。もう五年目だ。
与えられた仕事は、電話対応と、書類作成と、お昼の手配と、コーヒーをいれること。
誰がしても同じようなことで、本当に必要なのかわからないようなことで、毎日うんざりしている。
でも、ほかにできることはない。我ながら無能だと思う。自分のやりたいことなんて、考えたこともない。
それに今は、とにかく働かなければならない。優司との暮らしを維持するために。
優司は、月に一度ほどの頻度で、本社からこの営業所へ打ち合わせにやってくる正社員だった。
活気があって、明るくて、親切で、礼儀正しかった。好青年っていうのは、こういう人のことを言うのだろうと思った。気持ち悪いくらい、いい人だった。
食事に誘ってくれたときには、何かの間違いではないかと思った。優司は、私より九つ年下だ。
髪も服もメイクも、最低限はきれいにしているつもりだけれど、派遣の給料でそんなにお金はかけられない。もうすぐ四十歳だから、肌つやにも限界がある。
だから男と女とか、そういう気持ちではなくて、望まれたのだから光栄だと、ただいっしょにご飯を食べるつもりでついていった。
最初は確かに食事だった。でも、その日のうちにふたりでホテルの部屋にいた。シーツにくるまって、シャワーの音を聞いていた。なぜ食事に誘ってくれたのか聞いてみたら、私としてみたかったからだと言われた。返す言葉もない。これが若さなのか。興味本位で年増の女をたらし込む。思惑通りになったのだ。
きっと中年にさしかかった派遣の女が、正社員にからかわれたのだろう。
それなのになんだか幸せな気分で、しばらくはからかわれたままでいようと思った。
ベッドを共にしてくれる人なんて、もう一生現れないのだと思っていたから。
そんな優司と、そのまま半年ほど関係を続けて、結婚をして、一年とちょっとになる。
結婚には、どちらの家族も大反対だった。優司の母親には、もっと若い方といっしょにさせたいと、深々と頭を下げられた。説得しきれずに、逃げるようにいっしょに暮らし始めて、籍を入れた。
あの時は、私には優司が、優司には私が、絶対に必要なのだと信じていた。
抱きしめ合える相手を、失いたくなかっただけなのかもしれない。
「飯田さん、覚えてる? 今日、飯田さんがさ、コピー用紙を間違えて大量注文しちゃって。大変だったんだ」
飯田さんは私と同じ派遣社員で、たしか優司と同い年だ。
「ああ、あの子、覚えてるよ。仲いいの?」
優司が、飯田さんを誘ったことがあるのも知っている。最初は、優司のことを、かっこいいと言って狙っていたのだ。
「たまに話しする程度かな。トラブルのときだけ頼ってくるんだ」
本社から来る社員さん、最悪ですよ。騙されちゃダメですよ。飯田さんは、優司のことをそう言っていたのだ。私が優司との結婚を
報告したときには、驚かれたし、心配もされた。
彼女は私より、ずっと人を見る目がある。
「今日は何してたの?」
きっと何もしていないだろうとわかってはいるが、念のために聞いてみる。
「うん。ちょっとね。いろいろと」
優司の言う「いろいろ」は、何もしていないという意味だ。詳しく訳すと、なんとなくネットを徘徊して、ゲームして、テレビをつけて、ゴロゴロしていた、となる。これを世の中は、何もしていないというのに、優司にしてみれば、いろいろしたことになる。
「靴ぐらい、ちゃんとそろえてよ」
飲み込めなかった言葉が口を出る。こんな小言は言いたくない。でも、何も言わなければ永遠にそのままだ。私は一生、優司の脱いだ靴をそろえることになる。
「あー、さっきちょっと散歩に出てさ」
散歩は、靴をそろえない理由にならないと思うのだが。
「俺さ、健康のためにウォーキングとか始めてみようと思うんだよね」
同じようなことを、もう随分前にも聞いたことがあった。ウォーキングは、三日と続かなかった。
「そっか。がんばってね」
明日にはもう、そんなことを言ったことさえ覚えていないだろう。
「お腹すいたよ。夕ご飯、なに?」
夕ご飯は、自動的に出てこない。ずっと家にいるんだから、たまには私のために、夕食を用意してくれてもいいのに。
仕事から疲れて帰って、夕食の支度をして、掃除も、洗濯も、買い物も、家のあれこれはすべて私がしている。今の優司は、ただこの家にいる人なのだ。
優司が突然仕事を辞めたのは、半年前のことだった。結婚したばかりなのに、夫が仕事を辞めてしまった。
もう無理なんだと、理由をただひと言だけ聞いた。精神的に追い詰められているようだったから、それ以上聞くことも、責めることができなかった。これ以上、壊れてしまったら大ごとだ。
営業所の、それもかなり年上の派遣社員に手をだして結婚までしたことが、上司にも、同僚にも、なによりほかの女性社員たちにも不評だったようだ。
私だって、とっくにもう無理だ。でも、こういう時には、先に心が折れたほうが勝ちなのだ。
優司が会社を辞めたことを、優司の親も、私の親も知らない。落ち着いたら話すよと、優司は言ったけれど、そのまま半年が過ぎていた。
「買い物してこなかったから、冷蔵庫にあるもので何か作るよ。ちょっと待ってて」
着替えもそこそこに、キッチンに立つ。冷凍してあったご飯を電子レンジに入れる。冷蔵庫には、卵が三つと、熟した大きなトマトがあった。フライパンを熱して、ごま油を入れる。ざく切りにしたトマトとほぐした卵をさっと炒めた。味付けは醤油で。ご飯にのせて、トマト卵丼にする。
「いい匂いだね。これ大好き」
簡単な料理でも、優司は喜んでくれる。好き嫌いなく、何を作っても残さずに食べてくれる。
優司は、絶対に私を責めるようなことは言わない。だから、私も優司を責めることはできない。
ずるいなぁといつも思う。優司は、いつも正しいのだ。
「ねぇ、優司。仕事、どうするの?」
そろそろ働いてくれないかなと思って、時折りたずねる。
「うん。考えてる」
答えはいつも同じだ。何を考えているのかよくわからない。
「何か、やりたいこととかないの?」
もう一歩、踏み込む。
「うん。いまは特にないんだ。でも何か考えるよ」
それはいつなんだろう。いまではない、いつかは、いつやってくるんだろう。
「お金とかさ、ちょっと厳しいよ。私ひとりのお給料じゃ。派遣だからこの先、どうなるかわからないし。そろそろ切られるかもしれないよ」
優司はテレビの方を見ていて、私とは目をあわせない。
「うん。ちゃんと考えるよ。もうちょっとだけ待ってよ」
また逃げられた。でも、これ以上は聞けないのだ。
「わかった。それじゃ優司、家のこと、やってもらっていいかな。もう少し」
家のことは、やってもらわないようにしてきた。もしも家事が板についてしまったら、優司はきっと仕事を探さなくなる。そう思ったからだ。
「いいよ。料理とか、洗濯とか、掃除とか、どうやるか教えてよ」
もともと器用な優司のことだから、きっと家事ができるようになるのだろう。それを許してしまったら、思い描いていた夫婦にはなれない。
思い描いていたのは、古いタイプの家族だった。夫が仕事をして、妻も少しは仕事をするけれど、家のことをちゃんとして、子どもを育てながら、ママ友とランチをしておしゃべりして平日を過ごして、ダンナさん若くてうらやましいわなんて言われたりもして、週末は家族でショッピングセンターへおでかけして、子どもが成長して手がかからなくなったら、夫婦で同じ趣味をもったりして、旅行もして、いっしょに年を取っていく。
それが普通の夫婦。普通の家族。普通でいい。普通が欲しい。このままでは、そこにはもうたどり着けないかもしれない。
でも、すべてを私がやり続けるのは、やっぱり無理だ。
もしも優司が、もう仕事をしないつもりだったら、どうしたらいいんだろう。私の今の仕事では、家族を養ってはいけない。やっと今のアパートの家賃を払って、卵とトマトだけがおかずの夕食みたいに節約して食べつないで、どうにか生活している。
子どもなんて、産めないだろう。
そう思ったら、お腹のしたのほうが、ぎゅっと痛んだ。
「やっぱりいいや。料理とか、教えられるほど上手くないし。優司はもうちょっとのんびりして、これからのこと考えてよ」
テレビを見ている優司の横顔が、少しほっとしている。
「わかった。でもできそうなことはやってみるから、言ってよ」
ほら、やさしさを付け足してくる。
「うん。そうするね」
これでまた、元通りだ。次はまたいつ聞こうか。優司が忘れたころに、また聞いてみよう。どうしたいのか、どうしてくれるのか、これからどうなるのか。
夕食の食器を片付けて、お風呂にお湯をためているあいだ、優司に並んでテレビの前に座った。
優司の腕が私の肩を抱く。頭を優司の肩に乗せると、合図みたいに優司がキスをしてくる。そのままテレビの前で、狭いお風呂の小さな湯船にちょうどお湯がたまるくらいの時間、短いセックスをした。すぐに果てた優司は、いびきをかいて寝始めた。いつものことだ。
そういえばいっしょに暮らし始めて籍を入れたころ、
「結婚してよかったのは、毎日セックスできることだよね」
そう優司がつぶやいたことがあった。優司にとっての結婚の意味は、その程度のことだった。
優司を起こさないように、そろりと起き上がる。優司には毛布をかけて、ひとり、お風呂に入りに行く。優司がなめ回した体をすみずみまでごしごしとしっかり洗って、ざぶんと湯船へ。足を折って入るほどの小さなお風呂でお湯に浸かりながら、天井の染みを眺める。これが私だけの時間だ。
なんで結婚しちゃったんだろう。なんでこの人だと思っちゃったんだろう。なんで仕事も家事も何もかも私がひとりでやってるんだろう。なんでセックスしちゃうんだろう。考えるのは、そんなことばかりだった。お腹のしたのほうが、またぎゅっと痛んだ。
これが最後のチャンスだと思ったのだ。やさしくしてくれる人なんて、もう現れないと思ったのだ。年下のやさしい男の子に、すがりつく人生を選んでしまったのだ。
自業自得だと、だから反対したのにと、頭のなかで母のなじる声が聞こえる。
あの人だけは頼れない。
結婚してから、母と一度も会っていない。この先も、きっと会うことはないだろう。
母にとって、私は必要のない子どもだったのだと思う。
母は、ひとりで私を育てた。父親の姿はなかった。影さえもなかった。ただ出て行ったとだけ聞いた。高校生のときに戸籍を調べたら、父親の名前はなかった。
子どものころは、薄暗い古いアパートの部屋で、いつもひとりで母を待っていた。すっかり暗くなったころに、やっと母は帰ってきたけれど、あたたかく接してくれることはなかった。
毎日のように怒鳴られていた。何が原因だったかはわからない。母はいつもイライラしていて、疲れていて、怒っていた。
母親とは、そういうものだと思っていた。
あんたさえいなければ。あんたなんか産まなきゃよかった。何度も、何度も、そう言われた。ごめんなさい。ごめんなさい。繰り返し謝った。
テレビドラマに登場するやさしい母親は、幻想だ。あれはドラマだから。
小学校に入ってまもないころのことだったか、漢字の書き取りテストで百点を取ったことがある。子どもにとって初めての百点だ。母親に見せると、ふん、と興味もなさそうに見て、雑誌の山に重ねた。たしか、次の百点は、ぎゅっと小さく丸められて部屋のすみに転がった。その次の百点は、もう覚えていない。同じような運命をたどったのだろう。
それでも母親が恋しかったし、ほめられたかった。自分のまわりには、ほかに頼れる大人がいないのだ。
学校から帰ってきたら、家のことをした。母親が帰ってきたときに、少しでも機嫌がよくなるように。それでも母親は、一度もほめてくれなかった。感謝も、ありがとうの言葉ひとつももなかった。
でもそれが、当たり前だと思っていた。私は何も知らなかったのだ。
だから、そんな母親にだけはなりたくないのだ。テレビドラマに登場する、やさしい母親になるのだ。
せめて愚痴を聞いてくれる人がいたらいいのに。うちのダンナ、本当に困っちゃうのよって、愚痴って笑えたらいいのに。
お風呂からあがると、優司が起きてテレビを見ていた。
「ねぇ、ねこを買おうよ。散歩したときにペットショップに寄ったらさ、ふわふわのかわいいのがいたんだよ」
テレビのなかでは、お笑い芸人が保護猫の世話をしているシーンが流れている。子猫のミルクボランティアだ。片手に乗るほどの小さなふわふわの子猫が、ほ乳瓶からミルクを飲んでいる。
「五十万円だったかな。買ってよ。ねこがいたらさ、きっと毎日しあわせな気分ですごせるとおもうんだよね。日々の癒やしだよ」
現実逃避にもほどがある。
「でもこのアパートはネコ飼えないよ。それに五十万円なんて大金だよ。無理だよ」
健気な保護猫を見ながら、五十万円の高級猫の話しをする。優司の目には、何が見えているんだろう。
「まぁ、そのうち考えてよ」
そのうち、もしも優司が仕事をして、普通の夫婦に、普通の家族になれたらね。
「わかった。考えてみるね」
考えてみるよ。飼わないことを。飼えないでしょ。どう考えても。なぜそれがわからないのだろう。
なに考えてるのよ。そんなの無理に決まってるじゃない。もっと現実を見てよ。いつまでのんびりしてるのよ。いい加減にしてよ。ちゃんとしてよ。
のどの奥のほうで、そんな言葉が出てきたいと暴れている。必死に飲み込んで、大きくひとつため息をついた。
もしも、この口から出てしまったら、すべてが壊れてしまうのだ。
「先に寝るね」
敷きっぱなしの布団にもぐり込む。掛け布団も、毛布さえも、冷え切っていた。壁のほうを向いて、膝を抱えて目を閉じる。
お風呂であたたまったはずの体は、すぐに冷えてしまった。
なかなか寝付けずに、眠りの境目を行ったり来たりしていたら、部屋の電気が消えて、優司が布団に入ってきた。
優司が、私の背中に密着してくる。優司はいつも温かい。小さな布団のなかで、ふたりでいるからこその温かさがあった。
これだけは、手放したくない。
私は幸せなのだと、錯覚してしまう罠だとしても。
優司の手が、そっと私の乳房を掴む。
「ごめん優司。なんかお腹痛いから、今日はもうやめて」
優司の手がすっと引いた。背中の温かさまでも、引いてしまった。
「ごめん優司。怒った?」
優司は何も言わない。しばらくすると、寝息が聞こえてきた。
外は明るくなりはじめたころ、ぎゅっとしたお腹の痛みが目が覚めた。おしりのあたりが湿った感じがしていて、起き上がって見てみると、シーツが真っ赤に染まっていた。足のあいだから、血が流れ続けてる。
寒い。頭がぼんやりしてくる。
「ねぇ優司。起きて。なんかへんなことになってて。救急車、呼んだほうがいいかも」
優司は、寝起きの機嫌が悪い。面倒そうに起きあがって、血だらけの私を怪訝な顔でみつめる。
そして、ふと我に返る。優司にも血がついている。
「なんだよこれ。気持ち悪いんだよ。救急車なんて、自分で呼べよ、ばばあ」
朝早いし、そんな大声は出さないで。
優司じゃないみたいだった。いつもやさしい人だったのに。こんなに大きな声で怒鳴ったことなんてなかったのに。ばばあって、誰のことを言っているんだろう。
「でも、血が止まらなくて。助けて、優司」
優司の腕にさわったら、振り払われた。
「これ以上、俺の人生、めちゃくちゃにすんなよ」
優司はそう言い残して、走り去るように家を出て行った。スマホだけを握って、血のついたスウェット姿のままで。
私が優司をめちゃくちゃにしたのか。
めちゃくちゃにされたのは、私のほうではないのか。
優司が飲み込めずに吐き出した言葉を、拾い集める余裕は、今はない。
枕元に置いてあったスマホを手にして、どうにか救急車を呼んだ。何をどう説明したのか、覚えていない。目が覚めたときには、病院のベッドのうえだった。
生まれてこないことを選んだ子どもは、きっとここにいる誰よりも賢いのだろう。
あれから、優司は帰ってこない。
自業自得だと、だから反対したのにと、頭のなかで母のなじる声が聞こえる。
終わり