「自己犠牲」からの解放


「自己犠牲とは、自分を壊すことで居場所を創ること」と

表現していた人がいて、とても心が揺さぶられた。

「自己犠牲」
自分を壊すなんて!
そんな言い方って!!
良かれと思ってやったのに!!
という気持ちが湧いた。

ハッとした。

「良かれとおもって」は
クセものだ。自我の声。
ほとんどの場合、やめた方がいい。

きっと以前、自己犠牲をしていた時の「私」の叫びとモヤモヤだ。

この「以前の私」の叫びを落ち着かせてあげなければ。

********


自己犠牲には、美徳という「陽」の側面があるから

「陰」の意味を合わせる。


【犠牲】
犠:神を祭るときに供える生き物。いけにえ
牲:神を祭るときに供える生きた動物。いけにえ



【自己犠牲】
自ら己の人生を、神へのいけにえとして差し出す行為


陰陽両面の意味を知った上で
するしないを選択する。

お坊さんは「人の世を捨てる」「出家」の概念から、本来の選択を経ているので「利他」「美徳」のエネルギーになるんだろう。


個人的な体験では

人に迷惑を掛けないように。
人に親切にしなさい。
というような
時代や親の教えを

「自分より人を優先する」
と落とし込んでしまった。
(親もそうだったのだろうね)

そして、それが良いこと、美徳だと思っていた。
(親もそうだったのだろうね)

1択では、選択にならない。
それしか無いからしてるのでは
本来のエネルギーにはならない。
それは3次元的な善悪、損得の世界。

とはいえ、大きく見れば
誰かの気付きの道具として使われたり
集合意識や時代のカルマの解消を個人で背負ってみたり
全体の調和の調整の道具として生きている。


わたしは、この状態を無意識で約40年過ごした自覚があって
この役割は、ある意味救いだなと思う。

営業やりますって会社に入って、営業しないでいたら現代社会ではクビ。
だけど、クビにならずに、「どうしてもやりたい気分にならないなら、あの人のサポートして」とか「窓拭きやって」と別の役割を与えてもらえた感じ。

基本、人生は自由選択。
本来の自分を生きてなくても
「完璧なひとつ」の一部分として存在の尊厳は何も変わらないのだと。


でも、無意識的な自己犠牲は
どこかで辛くなるようになっている。
「わたしばっかり大変」

変化を促すように、色んな出来事も起きて来る。
エネルギーは、常に魂の豊かさに向かって流れてる。
流れに逆らい、辛さを持ち続けると、心と身体は魂から切り離される。

「わたしばっかり損してる」のだから変わればいいのだけど、変わることも、とても怖い。
正直どうしたらいいかも分からない。
習慣で、つい今までのやり方で、我慢してしまう。

私も、とても頑固に変化を拒んで、我慢していた。
無意識で1択の自己犠牲を続けていた。

そして、いくつかの段階を経て、
心と身体が限界値を超えて
「死」が目の前までやってきた時があった。

今は、
もっと早く降参したら良かったーとも
でも仕方なかったんだとも
両方を心から想う。

*********

この辺で、以前の「叫びの私」が落ち着いてきた。

私にも、そうする理由があったの。
私を壊す気は無かった。
それを分かってもらいたかった。
叫びの私は、そう言った。

ただ責められたように感じたとき
心は閉ざされる。

ただ聴いてもらうだけで
心は開き、解放される。

良かった。

色んなことに思いを巡らせて
わたしの中の「自己犠牲」の説明は

「自分を、違うものにして
 一旦の居場所を創る」

に落ち着いた。
叫びの私も、OKを出してくれた。

心の小さなカケラも浮いてくる
風の時代。

2020冬至、2021節分を経て
時代が軽くなったのが
「分かる」この頃。


人生のハプニングが起きる前に
「本当の自分を生きる」を選択することも出来るし、そうでなくてもいい。

風の時代は
「シンプル」「純粋な自己愛」の時代だと感じている✨

もうエンジンはいらない。
風に乗るパラグライダーみたいな
雰囲気で✨✨✨
風を見つけに行ってもいいし
待っててもいい。
バランス感覚で、わたしの風に乗る✨

これからは、今は笑顔の「元叫びの私」が、わたしを助けてくれるだろう❤️

ホ・オポノポノの言葉が
自然に出た

ありがとう
ごめんね
許してください
愛してます

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