アキのエッセイNo.137ー発達障害を免罪符にするな!と批判すること自体が健常者の偏見と傲慢
こんばんは、アキです。
最近、ネットのニュースで読んだ記事で
気になるものがありまして
木下優樹菜さんが
自身のADHDを告白したという報道に対し
共感する声もありつつ
「発達障害を免罪符にしている」というような批判が
あちらこちらと出ているという内容の記事でして。
木下優樹菜さんが
あれこれ問題を起こしているという話は
ざっくりと聞いていますが
本人が発達障害の検査を受け
診断を受けた経緯は
純粋に「自分を知りたい」と思ったからだと私は思います。
自分の生きづらさについて
本当のことを知りたいと思うのは
自然なことです。
発達障害出るという診断を受けて
自分の中で腑に落とす。
それは
自己受容のためには必要なプロセスです。
木下さんも
ただ、それを行っただけだと思います。
それに対して
「発達障害という診断を
今まで行った不祥事の言い訳に使っている」とか
「自分と向き合おうとしていない」とか
「発達障害を受け入れ、社会に適応使用と努力している人達に対して失礼」とか
色々批判してくる人達がいたそうで。
私は
どちらかというと
木下さんに対してよりも
批判してくる人達に対して違和感を強く抱きました。
木下さんが今までどれだけの人達に迷惑をかけたかは知りません。
それを詳しく知ったら
私も彼女に対して不快を抱くかも知れませんが
だからといって
彼女が自分を受け入れようとしていることを
責める権利は誰にもないわけです。
また
彼女を批判する人達は
発達障害について表面的に捉えているのでは?と
私は感じてしまいます。
発達障害によって
非常識的な行動や言動を取ってしまったり
仕事が健常者の人と比べて
上手く出来なかったりとか
よくありますが
人を傷つけてしまったり
迷惑をかけることはいけません。
それは
当事者にも理解してもらう必要はあります。
しかし
理解しても
基本的に
苦手なことは苦手なままです。
出来ないことは
出来ないのです。
決して
努力不足ではありません。
普通にやっては
出来ないから
やり方を工夫する人もいます。
それで済む人もいますが
それが出来ない人も
わりと多いです。
本人の努力や工夫で対処出来ない所は
家族や友人など
周りの人達に
配慮を頂く必要があります。
周りの力も借りて
対処するのも
一種の適応の形だと
私は捉えていますが
話を戻しますが
発達障害による失敗や不適切な行動は
批判してもなくなりません。
健常者と同じように
出来ることを望んで
批判するのだとしたら
それは
批判者の偏見と傲慢さによるものだと思います。
「頑張れば普通になれる」とか
そんなことは起こりえません。
批判される方々は
一般常識や普通という枠に合わせて
当事者を社会に適応させるのがベストと考えて批判しているように
感じてなりません。
一般常識や普通という枠に当てはめるのではなく
当事者が
何が得意で何が困難なのかをよく整理し
どこを工夫して当人に対処してもらうか
また
どこに配慮をすれば
社会生活で上手く馴染むことが出来るか?
その当事者に合った適応方法というものを模索する必要があります。
社会適応という言葉がありますが
それをたんに
一般常識や普通という枠に当てはめて従えと言う意味で使うのだとしたら、それは誤りです。
発達障害者は世間に適応するのが筋だと見なすのも、健常者の偏見だと思います。
「発達障害を免罪符に使うな!」と
批判するのではなく
まずは
発達障害という事実を受け止めること。
そして
既にしてしまった問題行為に関して責めるのではなく
どうやって発達障害を受け入れ
問題を最小限に抑え
上手く生きづらさを克服するには
どうやっていけばいいのかを
当人だけでなく、周囲の人達も含めて一緒に考えて実行していくことが肝心です。
木下優樹菜さんのADHD告白についての記事は
とても考えさせられる記事だったので
こうして持論を記事にさせていただきました。
私も発達障害者(ASD)ですが
それを言い訳に使おうと思ったことはありませんし
彼女もそうだと思います。
私は彼女を
陰ながら応援したいと思います。
最後までお読み下さり
ありがとうございます。
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