健康 Gesundheit!
登張センセ(前項)の邦訳『如是説法ツァラトゥストラー』の件。
Zarathustra の第Ⅲ部に「帰郷 Heimkehr」という段があり、それの最後の方で、ツァラトゥストラが「くしゃみをする niesen」くだりがある。niest und jubelt sich zu: Gesundheit! その箇所は、その後の訳(ニーチェ全集、現在では ちくま学芸文庫 版、吉沢伝三郎センセ訳)では、「お大事に」と自らに快活に口にする、というように訳出されている。
Gesundheit!/ゲズントハイト! は、通常の名詞としては「健康」である。しかし一種の間投詞として使われるときには、「お大事に」の意味になる。これは、やや意外かもしれないが、「英語」の辞書にも載っている。ランダムハウス英和辞典第二版では、この語は1909以降に(米で)成立したとされ、(くしゃみをした人に対して)「お大事に」と説明されている(同所からの引用)。ドイツからの移民の語が英語としても採録されたということであろう。
ドイツ的な習わしでは、くしゃみをした人に対して、見知らぬ人(そばにたまたまいる人)などが「Gesundheit!」と声をかけるというものであり、本人ではなく他のものが語ることによって効力(風邪を引かないなどの)があるとされる。自分で言っても意味がないようである。
たまたま近くにいる人が Gesundheit! を口にするのがよい(新説である)と、ネコイッチュは(かつて、ドイツ人に)習ったが、これが今でも通用するのかどうか、…不確かである。その後ドイツにおいても事情は大きく変わっているだろう。ドイツにおいて、東洋の山猿と目される見知らぬ人間が、くしゃみをしたドイツ人(荒くれっぽい人)に無断で声をかけてよいものであるのか、…不明である。AfDとかBSWの党の構成員が到る処に見いだされるなかで、これを口にすることは危険かもしれない。
ニーチェの先の文脈(帰郷)において、主人公ツァラトゥストラは、通常の観衆から離れて、他人を恃まずに、自らで充足して自ら健康を祝することになる。この帰郷の段では、幾度も「孤独」が語られることになる。孤独とは、ある種の生き様であって、人界においてもツァラトゥストラは孤独である。
陶淵明ならば、結廬結在人境/ 廬を結びて人境にあり、と称して人里に留まるだろう。これは東洋思想のある種の奥義に属するかもしれない。ここ に居ながら ここ に居ないとは、われわれのありうべき自己練磨の目標であるかもしれない。辨(弁)ぜんと欲し、すでに言をわすれる、とは西洋近代のロゴス(ことば)の在り方とは異なった方向を指しているように見える。
これと異なり、ニーチェ/ツァラトゥストラは、この下界(unten)を遍歴して、その後再び、山に籠もることを選ぶことになる。ツァラトゥストラは「山上の自由 Berges-Freiheit」を口にしている(同所=帰郷)。
中世では「都市の空気は自由にする」というものがありえたが、十九世紀のニーチェ/ツァラトゥストラにおいて、この地上の道徳的な空気は、自由な呼吸を妨げるものであったようである。一回りして、ツァラトゥストラの書の冒頭で描かれている〈下山/下降〉の手前にまで、ここで(ツァラトゥストラ第Ⅲ部のこの箇所で)、立ち戻ることになるのだろう。それ故の〈帰郷〉なのであろうが。
この段(帰郷)は、息の多くの動機(モティーフ)で満たされているように読める。「くしゃみ」もまた息に関わっている。くしゃみは「呼気」に他ならず、何かを次に語るときには、まずは息を吐かねばならない。吐くことの強度が強ければ、その文だけ、語り出す言葉も大きな魂魄を現し出すことができるのだろう。
冒頭の話に戻るのだが、ニーチェの行文に箱のようにあった : niest und jubelt sich zu: Gesundheit! 。 jubeln/ユーベルンは、大雑把に言えば、「ことほぐ、歓喜の声を上げる」というようなことになる。jubelnは、たしかにラテン語(iubilus)から来たものである(14世紀)。ちなみに、先にエリザベス二世(女王)が在位70年を祝った行事は、英語で「jubilee/ジュビリー」であるが、これも同じ語源である(14世紀)。いずれにしても、ラテン語のこの語自身が、ヘブライ語(ユダヤ人)に由来する。
ユダヤ教で「ヨベルの年」は 大贖罪の都市であり、その記念である。というよりも、そもそも「記念する」すなわち年ごとの周期を心に刻む、という風習が、ユダヤ的なことでもある。しかしカトリック(プロテスタントは異なる)では、25年ごとの聖なる年(聖年)という概念が中世に創出されて、よい話になっている(赦しがなされる年という触れ込み)。総じて、悔い改めの祈念ではあるけれど、同時に贖罪であり赦しに繋がる大事な節目ということにはなるだろう。(カトリック教会における「聖なる門」に関しては、別項を参照…)。
ニーチェ/ツァラトゥストラもまた、地を一周、経めぐって回帰する(山上と還る)ことを、一つの喜びとしているようである。もっとも、その後も求道が続くわけであるが…。同所(帰郷)に、「健康」の対義語である「病気/Krankheit/クランクハイト」が見いだされる。曰く、地上の墓掘り人たちは、病気を掘り起こす、と。これゆえに山上に住まねばならない、と。
さて、登張センセである。登張センセは、別に示したように、孤高の人であったようである。孤独とも言える。Bambuwindの独和辞典は、著者名として本人のみの名が記されている。実際に一人で作ったのだと思われる。大帝の辞書は共同作業であるだろう。一人で作りなせるものなのだろうか…。可能だったのだろう。人を導く辞書を作るのは、責任が重い仕事であり、恐らくは、作りつつも、これでよいだろうか…と自問しつつのことではなかったか。その事跡の重みはツァラトゥストラに比肩するようにも見える。
ともかくも、お疲れさま、である。「お大事に/Gesundheit」は、人がくしゃみをしたときに、間髪入れずに、口に出さねばならないとされている。この点で、時宜をまったく逸しているのだが、「お大事に / 健康に!」、である。 Wikipediaによると登張(父)センセは81歳まで長生きしたようである。よかりき。
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