中国語小説の翻訳教室――神の代弁者になるために(コラム1「語学はスポーツに近い」)
語学は開始当初、基礎を反復練習しなければなりません。基礎を固めてから初めて、次の段階に進むことができます。これはキャッチボールから始まる野球、リフティングから始まるサッカーと同じです。ところが日本の英語教育では、十分に英語と触れ合う前に、文法の高度な理論を教え込もうとします。ひらがなも書けない幼稚園児にサ行変格活用を教えたり、ボールもつかめないキャッチャーに野村克也氏の捕手理論を教えるようなものです。
語学はスポーツに近いという認識を持てば、理論から入るという無茶はしなくなるはずです。難しいことを考えず、とにかく数をこなして慣れることが大切です。私の場合は文法の教科書を何冊か購入し、その中から重要そうな700フレーズを抜き出し、丸暗記しました。難解な用語を使った面倒な理論が分からなくても、正しい中国語を体に叩き込むので、文法は必ず身につきます。
スポーツも語学も量から質が生まれ、その人なりのスタイルや思想へと発展していきます。そこから先は自分の適性に合った勉強方法を編み出していきましょう。適正というのは、努力によってそう簡単に変えられるものではありません。日本語さえ口にしたがらない内向的な人が外国語を流暢に話す通訳者になり、母語も立場も異なる人々の間で円滑なコミュニケーションを図ることはまず無理です。逆にコミュニケーションは得意でも本なんてめったに読まないという人にとっては、長編小説の翻訳など苦行でしかありません。
語学には四つの要素、すなわち会話・聴解・作文・読解があります。前二者は格闘技で例えるならば立ち技で、センスと度胸と驚異的な身体能力がなければ、努力で劇的に上達することはありません。後二者は寝技で、後の努力で天性の不足をある程度は補えます。もちろんこのすべてを満遍なくこなせる天才的な人もいます。打撃のプロになるか寝業師になるか、はたまたオールラウンダーになるかは、あなたの適正次第です。そう、スポーツや語学を通じ、私たちは自分を見つめ直すことができるのです。
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