スピリチュアルのメモ12
粘菌には知性があるだろうか。脳という機関も神経系もないにも関わらず、情報を処理し、あるがままであるがままの知性の由来は、縁起であり、無自性であり、空である。
如来とは、そのようにしてあるものである。法身として、満ち満ちたるものである。虚空に偏在し、そして、来ず、去りもしないものである。ただあるがままに、現象する。法身としての彼らは、あたかも無に見える。無分別であり、尽くすことが出来ず、幻化の如く、まさに虚空に偏在する。自然現象や、物音や、誰かの話しや、日常生活を送る上での細かな気付きは、方便である。
気付きのうちに如来は顕れ方便の説法をする。如来は秘密の顕れをする。如来は一切智智であるが故に、天地の運行にも、人々の流れにも、不可思議なる如来の秘密が働き、それはあたかも粘菌のように原始的かつ直感的な智慧である。
五大、つまり、地、水、火、風、空は如来の顕れであり、方便である。一切諸法は無相であり、如来の顕れである。
報身として、それが現したならば、それは稀なことである。世界の具現であり、彼はそこに、たしかに、いるだろう。そこにはただ愛あるのみであり、我々ができることはただ愛することと祈ることのみである。
仏像は依代である。依代であるが故に、そこに確かな信仰心があれば、報身として彼の前に顕れる。夜明けが近付けば、消えてしまうものだろうか。そこに確かな信仰心があれば、そこには確かに仏が現れ、ただあるがままに現象するのである。
月の灯りが太陽の反射であるように、月が光り輝くのならば、太陽も間違いなくおわすのである。故に、我々はそれを、愛して、信仰するのみである。仏は、方便によって人を導くものである。ゆえに、人にあった道を、未知を用意する。そのため、現世利益は願ってもよいだろう。むしろ願うべきであるとさえ思う。人は死後のことだけ考えて、生きてはいかれないのだから。
真言密教とは、手に印相を結び、真言を唱え、大日如来、あるいは毘盧舎那仏、あるいはその他の信仰対象で頭を満たすことによって、仏と一体になることを目指すものである。一般的な仏教では、身口意は三業と呼ばれ、業、つまり罪を生み出すものと考える。しかし、真言密教においては、業とはとらえず、仏と一体化する手段とする。これが三密と呼ばれるものである。身密、口密、意密と呼ばれ、行者の三密と仏の三密が一体化することが三密加持というのである。
真言は幻の如く、不可思議である。幻でありながら、不可思議であるがため、一切を成就する。
真理は真理として現象する。故に、発された真言もその通りである。真言もまた、真言として、道理を持って空である。空であるがゆえに『ひしめき』である。あらゆる仏典や曼荼羅は、理性による知よりも、直感的なもの、全体を全体として、無時間的に見ることを要請する。それこそが、空であり、空の智慧を般若という。仏典や曼荼羅を西洋的な論理的な知性で、見ようとしても、掴めない。それこそ粘菌のような、原始的かつ直感的な智慧をこそ般若と呼ぶ。
あらゆる如来は不可思議である。あらゆる世界は不可思議である。あらゆる真言は不可思議である。あらゆる曼荼羅は不可思議である。あらゆる仏典は不可思議である。故に、般若による智慧が必要とされるのである。
故に、仏典や曼荼羅はそれを読み、見ること自体が、般若の智慧、つまり粘菌的原始的知性を見出す、訓練や練習にもなっている。
あらゆるものは来たりて去らぬ如来であり、如去である。あらゆるものは来たりて去る如来であり、如去である。しかしながら、無時間的な見方をすれば、それは同一である。一切全てのものは如来の境地であるからして、如来の境地である一切は清浄である。交わりも営みもまた、如来の不可思議な秘密の智慧が働いているがために、清浄である。
相対や絶対は仮のものである。ある事物に良く即した名前を付けて、人はそれを真に在るものと、仮定し生活をする。しかし真には、実在は、相対や絶対から離れ、無二であり、無限であり、夢幻であり、如来の在り方のまま、不可思議で秘密の智慧であり、清浄である。一切の現象は穢れ迷い、しかし一切は如来のあらわれであるからして清浄であり、現象と真如は、同一でもなく、不同一でもなく、一でも二でもない。
自らのこころによって、識によって、世界は世界となり、あらゆる苦や悲や怒をうむのである。一切の世界は空であり、一切の法界もまた空であり、解脱の境地もまた空であり、涅槃の境地もまた空であり、一切諸法を空ずるところに空あり。真に如来は秘密の働きを持って、無時間的であるがままであり、粘菌的な知性を持つ直感であり、こころ、識の障礙するところによって一切は苦となって、生じたように観ずるのである。
一切は空である。一切は如来である。一切は無常である。一切は刹那であり、苦楽の種である。一切は永遠であり、因果の種である。一切はこころと識によって、顕れ、故にこころの上にはなにものもなく、一切事象は無我であり、直ちに明滅し、不変である。
一切はあり、あらず、そのようにしてあり、そのようにしてあらず、空を空ずるところに真なる世界を観ずる。一切はあり、あらず、しかし臨界点に達せば溢れてしまう。それはあたかもバベルの塔が神の怒りに触れたように、全てが崩れ去り、しかし新しいサイクルを与える。
雷は神の罰であると同時に、ひらめきや直感を与えるものである。祝福と罰もまた、善悪の区別なく、そのようにしてあり、そのようにしてあらぬものである。
誘惑に負ければ、当然その後に起こるものは破滅である。しかしそれは古いサイクルの終わりであり、新たなサイクルの始まりであり、星のように燦々と煌めく可能性である。
信仰基底(仏性、如来蔵)は自分以前であり、母胎であるとするならば、般若の粘菌的直感的知性は父である。それは、きっと慈悲の具現と、肯定の世界を産むだろう。すべてのものが生み出されれば、当然、そこには審判と裁きの過程が生じる。それは同時に現在し、現象し、時間的に見れば流れ、漂うものである。
あなたが、自己中心的に考えていれば、それはその通り縁によって、無自性により、空として、動くだけである。しかし、どのような考えが自己中心的であるかなどわからないものだ。人は自分しか体験できない。それゆえに、自身のレギュレーションの上で人を慮っても、かえって自己中心的に見られる場合もあるだろう。
しかし、それは、それなのだ。それを変えてみるのもよし、変えないのもまたよし。業には善悪などなく、こちらが押せば、押し返されるか、引くかの反応が返ってくる。ただそれだけである。ゆえにそれにはただ、あるがままに報いが返ってくるだけである。
だから、あなたは安心して踏み出せばいいのだ。いつでも、新たな始まりは、あなたの眼前に広がっている。愚行には愚行が、自由には自由が返ってくるだろう。そして、それは表裏一体のことである。無計画さと、天真爛漫な自由は、側から見ればどちらか判別つきがたい。ゆえに、それはただあるがままにあるがままの報いによって、あらゆることは、同時並行的にあるだろう。
あなたが正しくあろうとすることは無駄にはならない。それにもまた、正しい沙汰が降るのみ。
あなたは如来の秘密的知性を、粘菌的知性をたしかに持っている。しかし、眠らせたままである人も多いだろう。この世はまったき、曼荼羅である。
それは、曼荼羅であるゆえに時間的に見てはならない。無時間的にあるがままであるがままの知性を感じるのであり、如来は如来として、秘密の働きを現象する。
法身としての彼らは、あたかも無に見え、無分別であり、尽くすことが出来ない。幻化の如く、虚空に偏在し、あるがままで如来である。自然現象や、物音や、誰かの話しや、日常生活を送る上での細かな気付きは、方便である。そしてそれを曼荼羅として現している。また、そして、この世はまったき、曼荼羅そのものであるからして、それはその通りなのである。
そのような世界としての曼荼羅(自性曼荼羅)は、如来の法(ダルマ)であるがゆえに、それはそのとおりに『ひしめき』あるがまま知性し、現象する。
キリスト教のヨハネによる福音書によれば、初めに言葉があり、言葉は神と共にあったという。そして、万物は言葉により成り、言葉のうちに命があり、その命は人間を照らす光であったという。言葉は世にあり、世は言葉によって成ったという。空海もまた、声と字を重要視し、『五大にみな響あり、十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。』と言った。全ての発された言葉は真言である。全ては一字から発生し、一字に収束していく。それは世界と溶けあい、如来の不可思議な智慧の働きにより、現象し、そのようにしてあるだろう。故に、身口意の三密により、真言の、ことばを唱えることによって、如来の不可思議な智慧の働きにより現象し、幻の如く、不可思議な如来の働きが幻でありながら、不可思議であるがため、一切を成就するだろう。